松永久秀の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:52 UTC 版)
その後十数年もの空白を経て、永禄3年(1560年)11月に、大和国を制圧した松永久秀は、信貴山城を選んで大和支配の拠点とした。信貴山城を今日にみられるような規模の城郭としたのは久秀である。久秀が信貴山城を拠点として選んだ理由は、木沢長政の後継者として大和国を支配するという政治的アピールがあったと考えられる。なお、松永久秀の信貴山城入城は通説では永禄2年のこととされてきたが、中川貴皓によれば、これは誤りであると考えられる。 また、久秀は多聞山城も築城し、多聞山城は政治目的、信貴山城は軍事目的と異なった目的でそれぞれを使用した。信貴山城と多聞山城との間は20kmほどあり、出城の構築や龍田城・筒井城の使用によって連絡路を確保していた。 永禄6年には、信貴山城は一時的に筒井氏の手に渡ったが、久秀は同年中にこれを奪還している。なお、この頃、信貴山城には「信貴城衆」(「信貴在城衆」)という勢力が存在している。山口秀勝に率いられた「信貴城衆」は、地域社会の中に根付き、法隆寺とも政治的関係を結ぶなど強い力を有していた。 永禄11年(1568年)には信貴山城に再び危機が訪れる。松永久秀・三好義継と三好三人衆のあいだの政権抗争の過程において、同年6月29日、三人衆方の三好康長が信貴山城を攻め落とした。しかし、同年9月の足利義昭・織田信長の上洛により、義昭方の援軍を得ることができた久秀は信貴山城の奪還に成功している。
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