松永久秀家臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:33 UTC 版)
公家・久我家の家司を務める竹内季治の弟、またはその一族と考えられる。 はじめ三好長慶に仕え、天文22年(1553年)12月の時点で、摂津国西成郡沢上江(かすがえ、大阪市都島区)の代官を務めていた。 弘治2年(1556年)、石清水八幡宮の社家の家督に関する相論に松永久秀が携わっているが、この時久秀の取次を秀勝が務めていた。この頃、摂津国滝山城(神戸市中央区)に在城する久秀に秀勝が近侍していることが確認でき、これ以降久秀と秀勝の主従関係が明確となっていく。 永禄4年(1561年)から5年(1562年)に多聞山城(奈良市)が築かれると、秀勝は他の家臣たちとともにそこに居住した。永禄6年(1563年)1月や同年11月に久秀が多聞山城で催した茶会には秀勝も参加している。 永禄8年(1565年)5月、三好義継らが将軍・足利義輝を殺害した(永禄の変)。8月には久秀の弟の内藤宗勝が荻野直正に討たれ、三好家は丹波を失った。同年10月8日、波多野氏や柳本氏、赤井氏ら丹波衆が京都を攻めようとしたため、多聞山城から秀勝が出陣している。また同日、大和で秋山氏・小夫氏が松永方から離反し、11日に龍王山城でも謀叛が起きた。山城国から戻った秀勝は、これを受けて釜口(天理市)に出陣。小夫郷(桜井市)を焼いて籠城する小夫氏は、交渉により城を明け渡した。秀勝は再度京都に出陣した後、10月下旬には再び釜口に出陣し、外山山(とびやま、桜井市)の麓で戦った。
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