東部方面軍参謀長
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「エーリヒ・ルーデンドルフ」の記事における「東部方面軍参謀長」の解説
オーストリア軍支援のガリツィア方面出兵のためにドイツ第8軍は急遽第9軍を編成し、東部戦線のドイツ軍は第8軍と第9軍の2軍となり、その両軍の上に東部方面軍が置かれ、ヒンデンブルクが東部方面軍司令官、ルーデンドルフが東部方面軍参謀長にそれぞれ就任した。実権は引き続きルーデンドルフが握った。 1914年9月28日に第9軍と第8軍の一部はオーストリア軍支援のためにポーランド南部で攻勢に出て、ワルシャワ占領を目指し、10月6日にはヴァイクセル川に到着した。しかしヴァイクセル川の戦い(ドイツ語版)でロシア軍の頑強な抵抗にあい、突破できなかった。ドイツ軍は10月17日に退却し、オーストリア軍もカルパティア山脈まで押し戻された。ロシア軍はシュレージエンやハンガリーをうかがうまでに勢力を回復した。 11月3日の作戦会議で東部方面軍は作戦を立て直し、ロシア軍に気づかれぬように鉄道で第9軍をすばやく移動させ、11月11日にウッチを強襲した。ウッチの戦い(ドイツ語版)の末に12月6日にドイツ第9軍がウッチを占領した。これによりロシア軍のシュレージエン侵入の野望は潰えた。 1915年1月にヴィルヘルム2世の決裁で新たに4個軍団を得た東部方面軍は第10軍を創設した。オーストリア軍からの要請を受け、東プロイセンとカルパティアからロシア軍の突出部を攻撃する計画が実行された。東プロイセン・第二次マズーリ湖攻勢でロシア軍に勝利をおさめたが、ロシア軍は新手の第12軍を投入し、またカルパティアの戦い(ドイツ語版)のオーストリア軍の敗北でドイツの情勢はむしろ悪化した。 東部方面軍に業を煮やしたファルケンハイン参謀総長は新設の第11軍とともに東部戦線を訪れ、直接指揮を執った。第11軍の司令官にはマッケンゼンが任じられ、5月2日に第11軍はゴルリッツ=タルヌフ攻勢で攻撃を仕掛け、勝利を収めた。これを機にロシア軍は押し込められた。8月にはワルシャワが陥落。ロシア軍は大撤退を行い、1915年秋には東部戦線はひとまず安定した。 ファルケンハインはこの成功を盾に東部方面軍に対して態度を強め、東部方面軍の師団を別の戦線へ移動させるようになった。これに対してヒンデンブルクは1915年10月6日に「夏の作戦だけではロシア軍の攻撃力は完全に破られてはいない」としてこれ以上東部方面軍から師団を送ることを拒絶した。しかしヴィルヘルム2世の決裁でファルケンハインの命令通り、師団を送るよう命じられた。ファルケンハインは1915年夏の勝利でロシアは当分立ち直れないと踏んでいたが、その見通しは甘かった。ロシア軍は迅速に再編成を済ませ、フランス軍の要請を受けて1916年3月19日にナーロチ湖の戦い(ドイツ語版)で攻勢に出た。東部方面軍は何とかこれを撃退したが、6月4日にはロシア軍はオーストリア軍に対してブルシーロフ攻勢をかけて勝利を収めた。ロシア軍は7月にドイツ東部方面軍に対する攻勢にでたが、ドイツ東部方面軍はこれを食い止め、戦線を保った。ロシア軍は10月まで攻勢を続けたが、すでに不意打ちの効果は失われていた。ロシア軍はこの一連の攻勢で100万の兵を失った。ロシアで厭戦気分が高まり、1917年2月にはロシア革命が発生し、ロシア帝政が崩壊した。
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