東映・日拓ホーム・日本ハム時代
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「高橋直樹 (野球)」の記事における「東映・日拓ホーム・日本ハム時代」の解説
ゆったりした動きから手首を返し、握りを見せるフォームから繰り出すサイド気味のアンダースロー投手として、土橋正幸より背番号21を受け継いだ2年目の1969年より先発ローテーションに定着。5月までに5勝、その後勝ち星から遠ざかるが、7月後半から8勝し、13勝を挙げ、チームのエースとなる。1973年6月16日の対近鉄戦で打者27人でのノーヒットノーランを達成する。1974年8月18日には対近鉄戦で「先発してリードしたまま5回を投げた後で一度三塁手の守備をして、セーブが付く条件でリリーフ登板して9回まで投げてチームが勝利した」ことで、史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した(ルール改正により翌年から達成不可能となる)。1975年には17勝を挙げるなど、東映時代末期から長く不動のエースとして活躍。1979年の鳴門キャンプ時からはやさしい表情をカバーするため、口ひげを蓄えるようになり、それ以前から常用していたメガネとともにトレードマークとなっていた。これについては、「プロ入り10年で100勝の目標を達成したので『変わったことをやってみただけ』だ」とも言う。同年4月のパ・リーグ初MVPを獲得、結局シーズン最多無四球試合11のパ・リーグ記録と20勝をマークする。同年9月末監督の大沢啓二が「ナオだってトレード要員の可能性はある」と発言、これに高橋は「トレードなら喜んで行きますよ。」と発言し球団から罰金処分を受けた。大沢の抑え投手補強のチーム改革に沿う形で1981年、江夏豊とのトレードで広島東洋カープへ電撃移籍。20勝エースとリリーフエースとのトレードで大型トレードとして話題になる。当時大沢は高橋に投手陣の中心になることを期待しており、広島オーナーの松田耕平および監督の古葉竹識に江夏の獲得を申し入れた際、交換条件として高橋の名を挙げられると「高橋だけは出せません」と答えた。しかし広島側は条件を譲らず、迷った末に決めたと後に記している。
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