東京医学専門学校
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「佐藤清一郎 (医師)」の記事における「東京医学専門学校」の解説
東京医学専門学校の前身東京医学講習所が1916年(大正5年)9月11日に開設され、順天堂医院を実習病院としていたことから、同医院の外科部長である佐藤清一郎が東京医学専門学校の外科教授となった。佐藤は当時肺臓外科の第一人者であり、現在東京医科大学第一外科は肺癌手術数で全国大学病院中最多の症例実績を有している教室の基礎を築いた。なお、1921年(大正10年)第22回日本外科学会において佐藤清一郎は肺腫瘍の手術報告を行い、1923年(大正12年)には日本で最初の肺癌切除を報告した。
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東京医学専門学校
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1903年(明治36年)8月「済生救民」の考え方の下に長谷川泰により創設した済生学舎は廃校した。その後旧済生学舎の教師・生徒が学校復興を目指し1904年(明治37年)には山根正次等が私立日本医学校を、石川清忠等が私立東京医学校を立ち上げ、両校は1910年(明治43年)3月日本医学校が東京医学校を合併し、1912年(明治45年)7月には私立日本医学専門学校となった。1916年(大正5年)5月学生400余名が学校理事と意見対立し退学するに及び、退学学生は精力的に自身の故郷出身者に対し支援を要請し、徳島県出身者は秋田清議員や日本郵船社長の近藤廉平を、広島県出身者は高橋琢也を、茨城県出身者は佐藤進を動かし同年9月には東京医学講習所を開設し、1918年(大正7年)4月東京医学専門学校が創立した。佐藤進の順天堂から達次郎は東京医学講習所を開設時より医学教育を受け持ち、東京医学専門学校設立後は達次郎の義兄の養子佐藤清一郎も、順天堂医院小児科担当の清水茂松も教授として医学生を指導した。学校設立時における支援者としては森鷗外、原敬、犬養毅、高橋是清、大隈重信、渋沢栄一などがいる。
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