有名なクーリュール・デ・ボワ
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「クーリュール・デ・ボワ」の記事における「有名なクーリュール・デ・ボワ」の解説
メダール・シュアール・デ・グロセリエ(1618年-1696年) フランス人探検家でカナダの毛皮交易者。フランスのシャルリ=スール=マルヌに1618年7月に生まれたが、若いころのことは殆ど知られていない。1640年代のはじめにケベックに移住し、ヒューロン族の居住地(ヒューロニア)の近くで、イエズス会の布教を始めた。そこでクーリュール・デ・ボワの生活技術を学び、1653年に、二度目の妻マルゲリットを迎えた。マルゲリットの兄弟であるピエール=エスプリ・ラディソンも毛皮交易では有名な人物であり、デ・グロセリエと並んで語られる。2人は交易ルートを探るため西部の未開の地を探検したが、ヌーベルフランス当局からで違法行為であるとされ、1683年、2人はフランスへに渡りこの件を糺そうとした。この企みが失敗に終わると、2人はイングランドに寝返り、ハドソン湾会社の設立に貢献した。ハドソン湾周辺の多大な知識と経験があったため、多大な評価を受けた 。 ピエール=エスプリ・ラディソン(1636年-1710年) フランス系カナダ人の毛皮交易者であり探検家。ラディソンの人生は、義理の兄弟であるメガール・デ・グロセリエにより大きく変化させられた。ラディソンの、フランスでの若いころのことは殆ど知られていない。1636年にアヴィニョンに生まれ、1651年にヌーベルフランスに渡ってトロワリヴィエールに住んだ。その同じ年、彼の人生に劇的な変化が訪れた。カモ狩りをしていてモホーク族に捕えられた時、一緒にいた仲間2人はインディアンとのやりとりの最中に殺されたが、ラディソンは助けられ、彼らの集落に受け入れられた。1659年に、スペリオル湖畔にビーバーがたくさん住んでいることをクリー族から聞き、義兄弟のグロセリエとヌーベルフランス総督や本国に進言したが無視され、グロセリエは不法に交易を行ったとして投獄された。これに怒った2人は、イングランドへの内通を決める。ヌーベルフランスは、1671年になってこのことに気付いたが、その時には既にハドソン湾会社が存在していた。 ジャン・ニコレ・ド・ベルボルヌ(1598年ごろ-1642年11月1日) フランス人のクーリュール・デ・ボワで、グリーンベイ(現在のウィスコンシン州)を探検したことで有名。1590年代末にノルマンディに生まれ、1618年にヌーベルフランスに移住した。同じ年、サミュエル・ド・シャンプランに見出され、「ネーション・オブ・ジ・アイズル」と呼ばれたアルゴンキン諸族と共に暮らすようになり、彼らの言葉を学んで、後に通訳として活躍した。インディアンたちはすぐにニコレを仲間として受け入れ、彼が会議や協定調印に同席することさえも認めた。1620年、ニコレは、成長著しい毛皮交易で、ニシピング族と接触すると言う重要任務を任された。このことでニコレは大きな評価を得、1633年には、コンパニ・デ・サンアソシエの仕事に従事した 。
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