月照寺と明石藩の歴史とは? わかりやすく解説

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月照寺と明石藩の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 05:52 UTC 版)

月照寺 (明石市)」の記事における「月照寺と明石藩の歴史」の解説

平安時代初期弘仁2年811年)に空海現在の明石城本丸付近に当たる場所に楊柳寺建てた事に始まる。楊柳寺は後に月照寺となる。仁和の頃(885年889年)、住職の覚証が夢のお告げに従って柿本人麻呂祀り人丸社ができる。現在でも明石公園城跡に建つ西の隅櫓前に円形人丸塚残っている。こうした神社共存する月照寺のような寺院宮寺または別当寺神宮寺などと呼んだ。本来、神は仏が姿を変えて日本に来たという本地垂迹説があり、神と仏は一体であるという神仏習合思想よるもので、神社運営神官僧侶共同当たっていた。過去月照寺隣接している柿本神社月照寺は一体であったが、明治維新後、明治政府神社寺院分離する神仏分離令出した以後月照寺柿本神社別の宗教法人となる。 江戸時代初期元和5年1619年)、明石公園本丸跡にあった人丸社は現在の月照寺柿本神社のある人丸町の地に移転。これは明石城西国大名への抑えとする本格的な城郭にしようという幕府方針に基づくものだった戦国時代明石地方三木本城構え別所氏支配であった別所氏織田信長家臣羽柴秀吉滅ぼされ信長死後秀吉直轄地となった慶長5年1600年)、関ヶ原の戦い勝利を収めた徳川家康大名配置転換推し進め、その一つとして三河国吉田豊橋から池田輝政が播磨国移封された。大坂夏の陣豊臣氏滅亡後元和3年1617年二代将軍徳川秀忠信濃国松本から小笠原忠真移封当忠政)を明石移封した。忠真ははじめ舟上城明石市船上町)を居城としたが、江戸幕府の命により西国街道明石海峡眼下収める人丸山新城を築くこととなったため、月照寺人丸社は現在地移転させられた。 移転にあたって人丸別当坊月照寺対し藩主小笠原忠真意向伝達する執達状出された。この執達状以後月照寺伝来され、現在では明石市立文化博物館貸し出され常設コーナー展示されている。

※この「月照寺と明石藩の歴史」の解説は、「月照寺 (明石市)」の解説の一部です。
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