最高裁判所判事任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 02:19 UTC 版)
「ウィリアム・J・ブレナン・ジュニア」の記事における「最高裁判所判事任命」の解説
大統領選挙を間近に控えた1956年、ブレナンは、ドワイト・D・アイゼンハワーにより、休会任命の手続を通じてアメリカ合衆国最高裁判所判事に任命される。北東部出身でローマ・カトリック教徒である民主党員の任命は、共和党候補であるアイゼンハワーの再選がかかった来るべき選挙戦において、批判的な選挙民からの支持につながるであろうというのが大統領の顧問らの目論見であった。さらに、枢機卿フランシス・スペルマンもブレナンを強力に後押しした。 ブレナンは、ニュージャージー州最高裁判所首席裁判官アーサー・ヴァンダービルトの代理として会議でスピーチをしたが、それを見たアメリカ合衆国司法長官でアイゼンハワーの首席法律顧問のハーバート・ブラウネル(英語版)がブレナンに興味を抱いていた。ブラウネルにとって、ブレナンのスピーチは、とりわけ刑事上の問題に関して顕著に保守主義的に響いたようである。 ブレナンの任命にあたっては、次の二つの面から些かの議論があった。まず、裁判官としての判断にあたり、憲法ではなく自身の宗教的信条に依拠する可能性があるとして、国民自由連盟がカトリック教徒の任命に反対した。さらに、上院議員ジョセフ・マッカーシーもまた、ブレナンのスピーチ原稿に目を通し、共産主義者を対象とした調査を「魔女狩り」と非難しているのを見て異を唱えた。1957年の公聴会で、ブレナンはマッカーシーからの攻撃に対して反論し、教会法ではなく、ただ憲法のみに基づいてその判断を行うことを明言した。唯一マッカーシー上院議員のみが反対票を投じたが、ほぼ全会一致でブレナンの最高裁判事任命は承認された。 ブレナン任命に働いたその他の要因としてまず挙げられるのが、その州裁判所判事としての地位である。1932年のベンジャミン・カードーゾ以来、州裁判所の判事で最高裁判所判事に任命された者は存在しなかった。さらに、アール・ウォーレン(前カリフォルニア州知事)及びジョン・マーシャル・ハーラン2世(英語版)と共和党からの人選が二人続いていたことから、超党派的姿勢を見せたいというアイゼンハワーの意向もあった。 ブレナンは、シャーマン・ミントン判事の後任としてその地位に就き、1990年7月20日付けで健康上の理由により引退するまで最高裁判所判事を務めた。その後任には、デイヴィッド・スーター判事が着任する。ブレナンは、アイゼンハワー大統領からの任命された連邦裁判所判事のうち、最後の在任者であった。その後、ブレナンは1994年までジョージタウン大学ローセンターで教鞭をとった。ブレナンが最高裁判所判事在任中に執筆した意見の数は、1360に上る。これは、ウィリアム・O・ダグラス(英語版)に次いで歴代2位の数字である。
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