日韓併合まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:56 UTC 版)
1901年に私立中橋義塾に英語教師として赴任したが、1902年に辞職。李載完宮内部大臣の推薦により宮内府平式院総務課長に任ぜられた。以後、李載完と日本人企業家との通訳を任されたほか、度量衡改定に係る資金を借り入れるために、日本の実業家、渋沢栄一が経営する第一銀行との契約担当者になるなど重用されるようになる。1903年に漢城銀行が公立銀行として再建されると、李載完の推薦により、同行右総務に就任した。1905年には取締役兼総務部長に昇進する。日露戦争開戦前には前述の野津少佐から、日露間で外交攻防が繰り広げられていた義州府尹への就任を請われたが、韓は任地が遠方であるとしてこの申し出を断っている。1904年に日露戦争が勃発すると、日本から親日派として評価されていた韓は、野津少佐から保護便益が与えられた。同年、大韓帝国の財政顧問であった目賀田種太郎が行った貨幣整理事業に協力したが、1905年に事業の影響により金融恐慌が発生したことから、対策として設立された漢城共同倉庫・漢城農工銀行などの経営にも参加した。1908年6月には漢城実業協会評議員、9月に東洋拓殖設立委員を歴任し、12月に同社が設立されると理事に就任した。1909年10月に伊藤博文韓国統監が暗殺され、同年11月に伊藤の葬儀が開かれると、官民追悼会の一員として参加した。
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