斥和碑建設とは? わかりやすく解説

斥和碑建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)

興宣大院君」の記事における「斥和碑建設」の解説

1868年4月英国商船ドイツ商人オッペルト忠清道沿岸来て朝鮮開港求めた拒否された。そこでオッペルト興宣大院君の父、南延君徳山にある墓の副葬品盗掘しようと試みるが、失敗終わって朝鮮から脱出するはめになった。事を知らされ大院君激怒しカトリック迫害鎖国攘夷政策強化し西洋人野蛮人として、各地に「欧米列強侵犯しているのに戦わずして和親するのは売国だ。」と刻んだ斥和碑を建てさせ、朝鮮民衆攘夷呼びかける飛ばしたが、大し反響を得ることはなく、逆に大院君鎖国政策失脚原因となる。後に日韓併合まで斥和碑破壊された。

※この「斥和碑建設」の解説は、「興宣大院君」の解説の一部です。
「斥和碑建設」を含む「興宣大院君」の記事については、「興宣大院君」の概要を参照ください。

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