斥候隊として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:11 UTC 版)
1865年、ブラッディ・ナイフはアメリカ軍に雇われた。ブラッディ・ナイフの上官は、アルフレッド・サリー(英語版)であった。ブラッディ・ナイフは伝令兵として働いた。1865年の末、ブラッディ・ナイフは宿敵であるゴールが、白人を殺したという話を聞いた。アメリカ軍は、ゴールを捕縛するか、あるいは殺害するために部隊を派遣するところであった。ブラッディ・ナイフは、この派遣に参加し、ゴールが住まいとしていた集落へと部隊を案内した。ゴールはこのとき、追い詰められはしたものの、逃げ延びた。伝説的な話ではあるが、ゴールは兵士によって銃剣で二度刺されたが、これで死んだと誤解したアメリカ軍が去った後、息を吹き返したという話が残っている。この伝説では、ブラッディ・ナイフはゴールに銃を撃ち込もうとしたが、すでに死んでいると誤解したアメリカ軍兵士に止められたという。ブラッディ・ナイフは執拗に「ゴールは死んでいない」と抗議したが、聞き入れられたなかった。ただし、ゴールがシッティング・ブルと仲違いして、彼を殺そうとしたときに、同じような流れの話が出てくるため、この話は作り話の可能性も高い。 1866年、アンドリュー・ジョンソン大統領は、インディアン斥候隊を正式に軍に組み込むという案を承認した。ブラッディ・ナイフはこのとき、正式に斥候隊に入隊した。伍長待遇であった。しかし、ブラッディ・ナイフはアルコール依存症の問題を抱えており、仕事ぶりに問題があったという記録が残っている。それでも、1872年には下士官(英:Lance corporal、軍曹あるいは准尉に近い階級)に昇進した。 1873年、ブラッディ・ナイフは、フォートライスという地で、ジョージ・アームストロング・カスターと出会う。二人は意気投合し、カスターはブラッディ・ナイフの斥候としての能力を称賛した。ブラッディ・ナイフは横柄な性格であったが、カスターはその横柄な態度を、率直であると気に入った。しかし、カスターは気性が荒く不安定なところがあり、1874年にはブラッディ・ナイフを銃で撃った事がある。しかし、カスターは時折、ブラッディ・ナイフの名前が刻まれたメダルなどをワシントンに注文し、彼に贈るほど、ブラッディ・ナイフを気に入っていた。ブラッディ・ナイフもその期待に応え、スーの集落を発見しては、カスターに報告し、戦いを有利に導いた。 1874年、カスターはブラックヒルズの遠征(英語版)を遂行した。この遠征には1000人以上の歩兵、騎兵に加え、地質学者や鉱夫、記者などが加わっていた。さらに、ブラッディ・ナイフも含む65人のアリカラの斥候隊も含まれていた[自主公表]。なお、この遠征の前には、ゴールが率いたスーの戦士団が、アリカラの集落を襲撃しており、ブラッディ・ナイフの息子を含む住民を殺している。ブラッディ・ナイフたちアリカラの男は、復讐に燃えていた。この土地は、オグララ(英語版)・スーの集落が多い地であった。しかし、カスターにとってインディアン同士の争いなどは瑣末事であった。この遠征では、ブラッディ・ナイフたちがスーの集落を見つけたときに攻撃しようと行動を起こしたが、カスターは、この調査ではインディアンを殺すことより、金鉱を探る方が重要であると考えていた。このため、カスターはブラッディ・ナイフに、スーから攻撃を受けない限り、こちらからを攻撃しないよう命じた。 1874年8月7日、カスターたちは野営ができる場所を探していると、一頭の巨大なハイイログマに遭遇した。狩猟が趣味であったカスターは、ハイイログマを撃つことを生涯の夢としており、このとき、その夢を実現した。ブラッディ・ナイフや、ウィリアム・ラドロー(英語版)も、その狩りを手伝った。いくつかの記録によれば、そのクマに止めを刺したのは、カスターではなくブラッディ・ナイフであったという。 他のアリカラの斥候が月給13ドルを受け取っていたのに対し、ブラッディ・ナイフは月に75ドルを受け取っていた。さらに、遠征の成果を受けて、ボーナスとして150ドルを受け取った。
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