日赤病院建設
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「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」の記事における「日赤病院建設」の解説
日清戦争を契機として、1989年(明治32年)日赤は全国師団所在地に病院建設を計画、1901年(明治34年)日赤広島は国泰寺村(現在の千田町1丁目)に土地を取得し支部事務所を置くも、1904年(明治37年)勃発した日露戦争での救護事業費用によって日赤は財政難となったため病院建設自体はペンディングとなった。なおこの間その敷地には陸軍施設が置かれたり、1909年(明治42年)から1938年(昭和13年)まで進徳高等女学校が置かれている。 病院建設計画が再び動き出したのは1933年(昭和8年)頃と推定されている。満州事変勃発により傷病兵の収容と看護婦育成のための充実した赤十字病院建設の必要性が高まったこと、平時には一般診察を行う大きな病院の建設が地元要望に挙がるようになったためで、建設に際し寄付金や県の補助金を得ることが出来た。 一方千田敷地内にあった支部事務所は病院着工前にあたる1936年(昭和11年)に猿楽町の相生橋そばへ移転する。建物は元々広島商工会議所として建てられたもので、南側が木造2階建、北側が鉄筋コンクリート構造(RC構造)2階建のゴシック建築であった。 病院建設は進徳の移転に関連する用地買収問題から着工が遅れたものの、1939年(昭和14年)「日本赤十字社広島支部病院」として開業する。設計は佐藤功一、施工は藤田組(フジタ)、この2者による設計・施工は山陽記念館以来2例目になる。本館・中央病棟および北病棟ともにRC造地上3階地下1階、隔離病棟・看護婦生徒宿舎など付属施設が木造。当初設計では中央病棟の南側にも棟を作る予定(つまりTとHが合わさった形)で計画されていたが、この時点では作られなかった。当時の中国新聞は“外観、内容ともに地方稀なもの赤十字社広島支部病院”“軍都広島としての一大威容”と報道している。 以上が1945年被爆時点での日赤広島支部であり日赤病院である。
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