日産自動車、横浜マリノス
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「カルロス・レナト・フレデリコ」の記事における「日産自動車、横浜マリノス」の解説
1989年夏、サンパウロ時代の同僚のオスカーからの誘いを受けて日本サッカーリーグ (JSL) 1部の日産自動車サッカー部に加入。同年8月、合流後初の公式戦となったアジアクラブ選手権1989-90予選ラウンド(中国・瀋陽市で集中開催)では、第2戦のハップ・カン戦で4得点。1989-90シーズンの幕開けとなる第14回JSLカップでは、決勝のヤマハ発動機戦こそ暑さにより精彩を欠き無得点に終わったものの、2回戦の川崎製鉄戦、3回戦の全日空戦、フジタ戦といずれも先制点をあげる活躍を見せた。また、同年10月1日に行われたJSLオールスターサッカーでは同僚の木村和司、水沼貴史らとともにWESTの選手として出場し、水沼のアシストから1得点を決めた。 加入当初は中盤での起用となったが、シーズン半ばからフォワードに定着。同年冬の第69回天皇杯では準決勝の読売クラブ戦で決勝ゴール、決勝のヤマハ発動機戦でも同点ゴールをあげて優勝に貢献した。リーグ戦では優勝の行方を左右する一戦となった第15節の古河電工戦で1得点1アシストの活躍、第11節と第22節の日立製作所戦でのハットトリックを含む17得点をあげて得点王となり、リーグ優勝に貢献した。 翌1990-91シーズンは、第15回JSLカップ決勝の古河電工戦では先制ゴールを決めて優勝に貢献した。リーグ戦では読売クラブに競り負け3連覇を逃したものの、自身は10得点をあげて2年連続で得点王となった(戸塚哲也、北沢豪と同時受賞)。 1991-92シーズン、第71回天皇杯決勝の読売クラブ戦ではエバートンの先制点に繋がる飛び出しを見せると、1-1の同点で迎えた延長戦では水沼の左クロスを相手DFを背負いながら後方に落とし、木村和の決勝点をアシストした。さらに前線での巧みなキープから山田隆裕の3点目のゴールをアシストし、終了間際にはダメ押しとなる4点目のゴールをあげるなど全得点に絡み、優勝に貢献した。リーグ戦では1992年1月26日に行われた第14節のトヨタ自動車戦を最後に欠場が続いたため3季連続の得点王を逃したものの、2月7日に行われた第2回アジアカップウィナーズカップ決勝、アル・ナスルとの第2戦ではハットトリックを決め大会制覇に貢献した。 同年、プロ化により横浜マリノスへ移行後もチームに在籍。成長株の神野卓哉とポジションを争うことになったが、ナビスコカップでは第4節のサンフレッチェ広島戦での1得点、第72回天皇杯では無得点に終わった。 1993年1月17日に行われた第3回アジアカップウィナーズカップ決勝、ペルセポリスFCとの第1戦が日産および横浜Mでの最後の試合出場となり、0-1のスコアで迎えた82分に山田のクロスから左足でゴールを決めラストゲームを飾った。
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