日本兵捕虜の組織化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:51 UTC 版)
この時期、1938年12月、蔣介石の承認を得て国民党支配地区で「日本人民反戦同盟」を結成、「日本人の自立した立場」を自称し日本人捕虜、居留民に対する「教育」を開始し彼らを組織して反戦活動を行った。 日中戦争中の1938年5月19日に中華民国空軍所属の馬丁式重轟炸機(B-10B爆撃機)が、中国大陸から日本の九州上空に飛来し、宣伝ビラを散布する軍事行動をした。このビラは鹿地が作成したものであった。 後に延安ではじまった野坂参三たちの日本人民解放連盟の活動は、形式としては「鹿地のはじめた活動の支部」という形態をとっていた。しかし1940年以降、反戦同盟を親中国共産党団体と見なした蔣介石は弾圧を始め、鹿地はやむなく重慶で現地の情勢分析活動に従事した。 国民党は、日本兵捕虜から情報を収集するだけでなく、中国側の寛大さを示す国際宣伝に利用することも行っていた。さらに、収容所では「中国側へのオベッカから恭順をよそおう者」だけが「反戦分子」として優遇された。鹿地亘は郭沫若の協力もあり、1938年12月には反戦同盟を組織。1939年12月には、中国の抗日戦争は「日本人民の自由解放」と一致するとの声明を発表し、1940年5月には延安支部が建設され、八路軍や新四軍地区の日本人捕虜兵士による反戦運動にも影響を及ぼした。青山和夫は重慶政府国際宣伝処の対日工作顧問で(本名は黒田善治)、コミンテルンの指令で対日工作に活躍した。
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