日本リーグ・JBL時代
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「三遠ネオフェニックス」の記事における「日本リーグ・JBL時代」の解説
1999年、全日本実業団バスケットボール競技大会で優勝し日本リーグ昇格。2000年、オールジャパンでベスト8、日本リーグ2部で優勝を果たす。いすゞ自動車ギガキャッツとボッシュブルーウィンズの撤退に伴い、新潟アルビレックス(現・新潟アルビレックスBB)とともに2002年よりスーパーリーグに参戦。 2003年と2007年のオールジャパンでベスト4進出、2005-06にスーパーリーグ準優勝。 プロ化に対しては積極的であり、旧JBLがプロ化を見据えて日本バスケットボールリーグ(JBL)を創設した際には最初に参加に手を上げた。2007年からはチーム名に「東三河」を付け「オーエスジーフェニックス東三河」とし、豊橋市総合体育館をホームアリーナとした。 bjリーグ参戦表明 2007年のシーズン終了後、2008年からのbjリーグ参戦の検討を始めた。理由として、JBL新リーグがプロ化するにあたり、参加予定の8チームの中でオールプロのチームがオーエスジーを含めた3チームのみだったことに加え、地域密着を目指すオーエスジーの方針が同じく地域密着を目指すbjリーグの方針と合致したことなどが挙げられる。また、月刊バスケットボールのインタビュー記事で「我々は30年以上日本連盟でプレーしてきたが、何も変わらなかった。プロリーグであるbjリーグに転籍すれば間違いなく変われる。」とインタビューで述べていることから、転籍に対して相当な意気込みを見せている。 2007-08シーズンはJBL新リーグに参加。その後bjリーグ参加申請の結果、2008-09シーズンからの参加が可能になった。また、bj転籍に伴い浜松市と豊橋市を含む愛知県東三河地区とのダブルフランチャイズとし、チーム名は「浜松・東三河フェニックス」に変更となった(略称は自治体名の「浜松」)。ホームアリーナは豊橋市総合体育館のみから浜松市の浜松アリーナと浜北総合体育館、東三河の豊橋市総合体育館、豊川市総合体育館に増加する。2008-09、2009-10の2シーズンは東西交流戦のうちの2試合を北海道旭川市で開催していた。練習拠点は引き続き豊川市のオーエスジースクエア(オーエスジー豊川工場の敷地内にある)に置く。チーム運営会社は株式会社フェニックスコミュニケーションズとなり、オーエスジー本社は出資企業のひとつとしてチーム運営を継続する他、浜松・東三河地区の企業の出資も仰ぐ。なお、参入決定後、既にbjリーグに参戦しているライジング福岡とのプレシーズンマッチを予定していたが、JBL及び日本バスケットボール協会に認められず中止になった。 JBL、そしてオーエスジーフェニックス東三河としてのラストシーズンは総合3位で終えた。シーズン終了後、オーエスジーに所属していた選手は全員移籍選手リストに提示され、川村卓也、朝山正悟といった日本代表級選手がJBLの他チームに移籍し、大口真洋、太田敦也、岡田慎吾、堀田剛司といった選手が浜松・東三河フェニックスに残留し、新たに孫明明、ジョシュ・ペッパーズ、アダム・ザーン、アンディー・エリスらが加わった。ヘッドコーチ(HC)はオーエスジーHCの中村和雄が引き続き務める。
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