日本におけるラマーズ法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 09:02 UTC 版)
「ラマーズ法」の記事における「日本におけるラマーズ法」の解説
病院で管理された医師主導の分娩が主流となった1960年代に日本に紹介された。助産婦のサポートで産婦が夫とともに自立的に出産に臨み「いいお産」「自然なお産」ができると考えられ、ウーマンリブ活動家や助産婦、主体的に産みたい妊婦たちからの支持を受けた。1978年に朝日新聞の連載「お産革命」で紹介され、ラマーズ法が全国的に知られるようになる。杉山次子は医師や助産婦の協力を得て、東京に「お産の学校」を開校し、ラマーズ法の理論と実践(呼吸法、弛緩法、妊婦体操など)を広めた。ラマーズ法1990年代なかばには、医師側からの理解も進み、ラマーズ法はあたりまえの存在になっていった。 1960年代後半、日本に紹介される。 1971年、日本ペアレントクラフトが設立され、在日アメリカ人らを対象にアメリカ式のラマーズ法を教えるようになる 1972年ごろから、日赤医療センターの雨森良彦はラマーズ法で出産希望の外国人夫婦らを受け入れ始める。 1973年、ウーマンリブ活動家の山田美津子は渡米し、米国のウーマンリブ運動家からラマーズ法の指導解説書 "Women's Body" を紹介され帰国後翻訳し、合同出版社より『女のからだ』として出版した。日本ペアレントクラフトで講師養成の講座を受講。女性が主体的に自分の出産にかかわるラマーズ法は、ウーマンリブの女性たちにも歓迎され、山田は準備出産クラスを開催するようになった。 1975年ごろ、立川市の所産婦三森孔子はラマーズ法に出会い、ラマーズ法による出産を三森助産院で手がけるようになる。三森はラマーズ法に独自の工夫を加え、「三森式ラマーズ法」といわれる方法をあみだしていった。 1977年、「産婆の学校」が開校し三森も講師として参加。 1978年、聖母病院で尾島信夫医師によりラマーズ式分娩が採用される。 1978年11月25日、朝日新聞記者の藤田真一が連載「お産革命」でラマーズ式無痛分娩法と三森助産院を紹介し、ラマーズ法が全国的に知られるようになる。 1980年3月、杉山次子らにより「お産の学校」が開校し、多数の受講者を集めて17年にわたって続き、ラマーズ法普及に大きな役割を果たした。 1980年代前半には、助産婦団体もラマーズ法を積極的に後押しし広めるようになり、病院での産前教育にもだんだん取り入れられるようになっていく。 1980年代なかごろには、ラマーズ法への理解も進み、一般に広く受け入れられるようになる。 1986年、林弘平ら医師によるラマーズ法研究会が立ち上げられる 1996年、「お産の学校」が受講生の減少もあり、100期を区切りとして閉校。
※この「日本におけるラマーズ法」の解説は、「ラマーズ法」の解説の一部です。
「日本におけるラマーズ法」を含む「ラマーズ法」の記事については、「ラマーズ法」の概要を参照ください。
- 日本におけるラマーズ法のページへのリンク