日本におけるラッサールとは? わかりやすく解説

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日本におけるラッサール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 16:41 UTC 版)

フェルディナント・ラッサール」の記事における「日本におけるラッサール」の解説

日本における社会主義草創期である明治時代末にはラッサール日本社会主義者たちのスターだった。幸徳秋水にとってもラッサール憧れの人であり、明治37年1904年)にはラッサール伝記著している。その著作の中で幸徳は「想ふに日本今日時勢は、当時独逸極めて相似て居るのである。(略)今日の日本第二ラッサールを呼ぶの必要が有るではないかと書いている。また吉田松陰ラッサール類似性主張して若し松陰をして当時独逸生まれしめば、矢張ラッサール同一事業為したかも知れぬ」と述べる。社会主義的詩人児玉花外ラッサールの死を悼む詩を作っている。後にコミンテルン執行委員となる片山潜もこの時期にはラッサール国家社会主義深く傾倒しラッサールについて「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルク独乙一統経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した。しかしロシア革命後には社会主義本流マルクス=レーニン主義との認識日本社会主義者の間でも強まりラッサール異端視されて社会主義者たちの間で語られることはなくなっていった逆に反マルクス主義者の小泉信三河合栄治郎マルクス対立者であるラッサールに深い関心を寄せるようになり、彼に関す評伝を書くようになった小泉は「マルクス国家と自由は相いれない考えていたが、逆にラッサールは自由は真正国家のもとでのみ達成される考えていた」とし、マルクス欠陥補ったのがラッサールであると主張した河合ビスマルクマルクスラッサールを「19世紀ドイツ社会思想三巨頭」と定義しラッサールが他の二人と違う点として「社会思想家なだけではなく社会運動家」だった点を指摘する。この二人二人研究引き継いだ林健太郎戦前主なラッサール研究者であった戦後には林健太郎門下生猪木正道江上照彦らにもその研究引き継がれた。 彼らの活動中心としてラッサールの名は日本でも知られるようになっていった。

※この「日本におけるラッサール」の解説は、「フェルディナント・ラッサール」の解説の一部です。
「日本におけるラッサール」を含む「フェルディナント・ラッサール」の記事については、「フェルディナント・ラッサール」の概要を参照ください。

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