日本におけるラッサール
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「フェルディナント・ラッサール」の記事における「日本におけるラッサール」の解説
日本における社会主義草創期である明治時代末にはラッサールは日本社会主義者たちのスターだった。幸徳秋水にとってもラッサールは憧れの人であり、明治37年(1904年)にはラッサールの伝記を著している。その著作の中で幸徳は「想ふに日本今日の時勢は、当時の独逸と極めて相似て居るのである。(略)今日の日本は第二のラッサールを呼ぶの必要が有るのではないか」と書いている。また吉田松陰とラッサールの類似性を主張して「若し松陰をして当時の独逸に生まれしめば、矢張ラッサールと同一の事業を為したかも知れぬ」と述べる。社会主義的詩人児玉花外もラッサールの死を悼む詩を作っている。後にコミンテルン執行委員となる片山潜もこの時期にはラッサールの国家社会主義に深く傾倒し、ラッサールについて「前の総理大臣ビスマルク侯に尊重せられし人なり。然り、彼は曹てビスマルクに独乙一統の経営策を与え、又た進んでビスマルクをして後日社会主義の労働者制度を執らしめたる偉人物」と評した。しかしロシア革命後には社会主義の本流はマルクス=レーニン主義との認識が日本社会主義者の間でも強まり、ラッサールは異端視されて社会主義者たちの間で語られることはなくなっていった。 逆に反マルクス主義者の小泉信三や河合栄治郎はマルクスの対立者であるラッサールに深い関心を寄せるようになり、彼に関する評伝を書くようになった。小泉は「マルクスは国家と自由は相いれないと考えていたが、逆にラッサールは自由は真正の国家のもとでのみ達成されると考えていた」とし、マルクスの欠陥を補ったのがラッサールであると主張した。河合はビスマルク、マルクス、ラッサールを「19世紀ドイツ社会思想の三巨頭」と定義し、ラッサールが他の二人と違う点として「社会思想家なだけではなく社会運動家」だった点を指摘する。この二人と二人の研究を引き継いだ林健太郎が戦前の主なラッサール研究者であった。戦後には林健太郎の門下生の猪木正道や江上照彦らにもその研究が引き継がれた。 彼らの活動を中心としてラッサールの名は日本でも知られるようになっていった。
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