日向高鍋藩の明倫堂
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7代藩主・秋月種茂が儒官・千手興欽の進言に基づき安永7年2月24日(1778年)に設立した。藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを最大の特徴とする。5代藩主・秋月種弘の時に学問・武芸の稽古所があった高鍋城三の丸(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し、従来からの武芸稽古所と併設して藩士の子弟に文武を兼学させた。 小学と大学に分れ、それぞれを行習斎、著察斎と呼んでいた。行習斎には8~9歳で入学し、孝経、大学、論語などの素読や、孝経、小学内外篇の講義、礼式、書道、数学を学んだ。行習斎を修了して進む著察斎では各自で講読または会読を行い、教授への質疑や典籍の科目は自由であった。嘉永年間初頭に医学所が設けられたが、教授が多忙のため中止され、1870年(明治3年)に再開している。嘉永6年には切偲楼という寄宿寮が設置され、初めの寮生は著察斎から藩費生3名と志願者6名であったが後に増加して定員50名となった。 開講当時の経費は約36石だったが、幕末には1,500石まで増えた。職員は家老の稽古大都合以下23人(後に24人)であった。元治元年(1864年)には庶民教育のために椎木郷学校が開校し、次いで美々津(現・日向市)、都農(現・都農町)、平田(現・川南町)、三納代(現・新富町)、福島(現・串間市)に6つの郷学が、さらに小池(現・川南町)、日置(現・新富町)と諸県郡三名(現・国富町)に3校が設立され、明倫堂はこれらを管轄した。1869年(明治2年)には国学科が設けられ、玉鉾百首や神代正語、万葉集などが教えられた。1873年(明治6年)に廃止され、その後は高鍋島田学校を経て1887年には現在の宮崎県児湯郡高鍋町立高鍋東小学校となった。明倫堂の書庫は土蔵造で、現在は高鍋町立高鍋図書館構内に蔵書とともに改築されている。明倫堂の教育方法は当時としては画期的で、優秀な人材も沢山輩出したので、「高鍋で学者ぶるな」という諺が日向国内にあった。
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