日向高鍋藩の明倫堂とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日向高鍋藩の明倫堂の意味・解説 

日向高鍋藩の明倫堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:42 UTC 版)

明倫堂」の記事における「日向高鍋藩の明倫堂」の解説

7代藩主秋月種茂儒官千手興欽の進言に基づき安永7年2月24日1778年)に設立した藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを最大特徴とする。5代藩主秋月種弘時に学問・武芸稽古所があった高鍋城三の丸(現在は宮崎県立高鍋農業高等学校一部)に位置し従来からの武芸稽古所併設して藩士の子弟に文武兼学させた。 小学大学分れそれぞれを行習斎、著察斎と呼んでいた。行習斎には8~9歳入学し孝経大学論語などの素読や、孝経小学内外篇の講義礼式書道数学学んだ。行習斎を修了して進む著察斎では各自講読または会読行い教授への質疑典籍科目は自由であった嘉永年間初頭医学所設けられたが、教授多忙のため中止され1870年明治3年)に再開している。嘉永6年には切偲という寄宿寮設置され初め寮生は著察斎から藩費生3名と志願者6名であったが後に増加して定員50となった開講当時経費は約36石だったが、幕末には1,500石まで増えた職員家老稽古大都合以下23人(後に24人)であった元治元年1864年)には庶民教育のために椎木郷学校開校し次いで美々津(現・日向市)、都農(現・都農町)、平田現・川南町)、三納代(現・新富町)、福島(現・串間市)に6つ郷学が、さらに小池現・川南町)、日置(現・新富町)と諸県郡三名現・国富町)に3校が設立され明倫堂はこれらを管轄した。1869年明治2年)には国学科が設けられ玉鉾百首神代正語万葉集などが教えられた。1873年明治6年)に廃止されその後高鍋島田学校経て1887年には現在の宮崎県児湯郡高鍋町立高鍋東小学校となった明倫堂書庫土蔵造で、現在は高鍋町高鍋図書館構内蔵書とともに改築されている。明倫堂教育方法当時としては画期的で、優秀な人材も沢山輩出したので、「高鍋学者ぶるな」という諺が日向国にあった

※この「日向高鍋藩の明倫堂」の解説は、「明倫堂」の解説の一部です。
「日向高鍋藩の明倫堂」を含む「明倫堂」の記事については、「明倫堂」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日向高鍋藩の明倫堂」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日向高鍋藩の明倫堂」の関連用語

1
12% |||||

日向高鍋藩の明倫堂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日向高鍋藩の明倫堂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの明倫堂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS