新宿駅乗り入れ中止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 08:33 UTC 版)
1964年(昭和39年)、国鉄新宿駅東口に「新宿ステーションビル」が完成した。ビル2階は西武線乗り入れを考慮した構造となっていて、実際にビルには旅客用の入口が開けられ、改札ラッチも搬入され、高架線の基礎もいくつか作られていた。しかし、島式ホーム1本の6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず、輸送量が急増していた西武新宿線のターミナルとするには狭過ぎた。そのため、乗り入れ計画は中止された。 西武新宿線が新宿駅乗り入れを断念した本当の理由には異説もある。堤康次郎の側近だった中嶋忠三郎によると、戦時中に東京西南部の私鉄を次々に東京急行電鉄(大東急)に組み入れた五島慶太は、旧西武鉄道(現在の西武新宿線など)も狙っていた。1944年(昭和19年)に堤康次郎は旧西武鉄道、武蔵野鉄道、食糧増産の3社を合併する申請を出したが、五島と手を結んだ鉄道総局長官の堀木鎌三は許可を出さず、さらに西武系を分割するように圧力をかけてきた。堤はこの交通統制に懲りて西武鉄道の都心乗り入れを一切止めたという。中嶋は新宿東口までの延伸を主張したが、堤の意向で歌舞伎町の所で切られた。 西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの髙島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れなくなった。
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