新宿延伸計画と頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 10:08 UTC 版)
「東京横浜電鉄新宿延伸計画」の記事における「新宿延伸計画と頓挫」の解説
東横線の開業後、五島は都心への進出を模索し、有楽町への延伸計画も再び立ち上げたが、関東大震災後の都市計画見直しと資金の都合で流れた。一方、祐天寺 - 渋谷 - 新宿間の免許のうち、未着工であった渋谷 - 新宿間については、構想を五島に一任した上で、施行期限の延長申請を出すなどして保持し続けた。当時の計画では、現在のJR渋谷駅の西側から北に向かい、代々木練兵場を西に迂回し、代々木八幡駅付近で小田急線と合流し、新宿駅まで並走するルートだった。 1910年代から1920年代にかけては、新宿に複数の鉄道ターミナル駅が集まり、副都心としての将来性が有望視されるようになった時代であり、新宿延伸線については東京市(当時)の都市計画構想にも組み込まれ、東横線乗り入れスペースは小田急電鉄の駅敷地の西側に確保されていた。しかし山手線との並行路線を、わざわざ明治神宮の西側を迂回してまで建設するだけの資金や意義もない上、五島の関心が東京における地下鉄建設を目指した東京高速鉄道(東京メトロの前身の一つ)に移っていたこともあって、1936年(昭和11年)にこの免許も失効した。 なお、新宿駅に確保されていた東横線新宿駅の用地は、1945年(昭和20年)に京王線が空襲による変電所被災によって甲州街道のガード橋を渡れなくなった際、代替として新宿駅西口に乗り入れるための駅用地に転用された(京王線の新宿駅付近の廃駅も参照)。 太平洋戦争終戦直後の1947年(昭和22年)には、東京急行電鉄(戦時中に東京横浜電鉄から改称)が、太平洋戦争終戦直後の復興事業について東京都と帝都高速度交通営団が揉めている状況にあったことから、自前で東京駅や品川駅・新宿駅へ各線を延伸させる免許を申請した。しかし、当時の運輸省は資材や資金の不足する時代に建設できるのかと疑問を投げかけ、結局は都市交通審議会によって営団地下鉄(当時)日比谷線の計画が発表されたことなどから、1957年(昭和32年)に免許申請は取り下げられた。
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