新宮殿時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:23 UTC 版)
クノッソスの新宮殿は、古宮殿よりもより壮大で巨大な建造物になった。石膏など、より高価な原材料を多用するようになり、壁はフレスコ画によって更に装飾されることになった。宮殿への正式な入り口は西側に作られ、一つの巨大な柱が特徴的なプロピュライア(門)が存在した。高架橋で繋がった北西の入り口は廃止され、その代わりに南東の入り口が使用された。その他、宮殿への入り口は北と東にも作られた。新宮殿は西と東に新しい建造物が追加され、その中央には中庭があった。クノッソスには劇場や公文書保管所、作業場や両頭斧(ラブリュス)の間、壮大な階段やレセプションルームなど、様々な施設があった。 クノッソス周辺の市街は750,000平方メートルほども広がっており、宮殿に近かった家々には見事なフレスコ画が飾ってあった。市街地には「王の道」と呼ばれる舗装された道路が横切っており、その「王の道」は宮殿から複数の郊外にまで通じている。粘土で作られたパイプによる水の供給・排水システムも充実しており、郊外の泉から生活用水を市街地と宮殿にもたらしていた。特に排水システムは大規模な建築様式を採用していた。 クノッソスはクレタ島において最も力のあった地であり、最大の規模と豪華さで、その文化的影響も全クレタに波及していた。クノッソスをリーダーとするミノア文明の影響は海外にまで及び、キクラデス諸島やドデカニサ諸島、キプロス島、ギリシア本土、シリア、パレスチナ、エジプトすらもその影響下にあった。各地にミノア文明の別荘まで作られ、その構造は宮殿を模倣したものであった。クノッソスには城壁が無いが、その代わりに世界最強の海軍を有しており、サントリーニ島から出土したフレスコ画には、強大なミノア艦隊の交戦場面が描き出されている。ミノア文明は東エーゲ海を支配し、当時世界最高水準の文明であった。 しかし、巨大な災害により、ミノア文明の全盛期にも終わりが訪れる。巨大な地震、もしくは内戦やサントリーニ島の噴火(近年では噴火説は否定されつつある)により、クレタ島に繁栄した大半の宮殿は消滅してしまう。クノッソス宮殿は生き延びるものの、もはや全盛期の力は残されていなかった。
※この「新宮殿時代」の解説は、「クノッソス」の解説の一部です。
「新宮殿時代」を含む「クノッソス」の記事については、「クノッソス」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から新宮殿時代を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 新宮殿時代のページへのリンク