新十両〜大関候補〜左ひざの大ケガ
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1975年11月場所に新十両、1977年1月場所新入幕。同年11月場所で2回目の挑戦で北の湖から金星を挙げるなど10勝5敗を挙げ初の三賞となる殊勲賞を獲得。この場所の北の湖戦は、左四つになって右前まわしをつかみ体をあおるように寄り立てると、北の湖は土俵下へもんどりうった、という流れであった。これ以前は腰の重さに任せた相撲であったが、この1番をきっかけとして相撲が速くなった。翌1978年1月場所新関脇。一躍大関候補となり幕内上位の常連となり活躍したが、1978年11月場所の麒麟児戦で左膝内側側副靱帯断裂の大ケガで途中休場。翌1月場所の金城(後の栃光)戦でそれを再発させて再び途中休場。古傷の再発ということで公傷が適用されず、以後2場所連続全休で幕下30枚目まで陥落。それでも腐らずケガを治すと幕下2場所、十両1場所で通過し、1980年1月場所で幕内復帰。その場所で12勝3敗の成績を挙げ敢闘賞を受賞。翌3月場所も10勝5敗の成績を挙げ2場所連続の敢闘賞受賞。5月場所では関脇に復帰し10勝5敗の成績を挙げ殊勲賞を受賞するなど再び大関候補にのし上がるも7月場所ではまたも栃光戦で左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板損傷・左腰部挫傷の大ケガで途中休場。当時理事長の春日野親方(元横綱栃錦)が「今度こそ駄目だろう」と言ったほどの重症であった。この怪我で初めて患部にメスを入れたということからも怪我の重大さが分かる。
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