新十両から引退まで
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新十両で迎えた2008年1月場所では7勝8敗と負け越し、1場所で幕下へ陥落したものの、翌3月場所では東幕下2枚目で5勝2敗と勝ち越し、十両に復帰した翌5月場所では8勝7敗と十両で初めての勝ち越しを決めた。その後は連相撲が多く十両で勝ち越すことができなかったが、2009年3月場所で11勝4敗の好成績を挙げ、続く5月場所でも西十両2枚目の位置で9勝6敗と勝ち越しを果たし、翌7月場所において新入幕を果たした。しかし、その7月場所では4勝11敗と大敗し、翌9月場所では十両へ陥落した。 2010年5月場所において再入幕を果たすと、その5月場所において10勝5敗という好成績を挙げて幕内では自身初となる勝ち越しを果たした。しかし、同年5月場所中に発覚した大相撲野球賭博問題において野球賭博に関与したとの理由で、特別調査委員会から翌7月場所での謹慎休場を勧告され、自己最高位となる東前頭8枚目で迎えた7月場所を全休し、翌9月場所では再び十両へ陥落した。 2011年1月場所に3回目の入幕を果たし、同年11月場所では西前頭9枚目の位置で優勝次点となる12勝3敗の好成績を挙げて、自身初となる敢闘賞を受賞した。翌2012年1月場所では新三役となる西小結へと一気に昇進した。これにより阿武松部屋から初となる三役力士が誕生した。だが、その1月場所では5勝10敗と大きく負け越した。同年5月場所では10勝5敗という好成績を挙げたものの、東前頭3枚目の位置まで番付を戻した翌7月場所では横綱・大関陣には全く勝つことができずに3勝12敗という大敗に終わった。同年11月場所で4勝11敗と大敗し、翌2013年1月場所では十両へ陥落した。 2013年7月場所には東十両12枚目まで下がり、わずか1年で上位総当たりの地位から十両下位まで番付を落とした事を心配され幕下陥落も危惧されていたが、8勝7敗と7場所ぶりに勝ち越した。2014年5月場所は西十両11枚目の番付で土俵に上がったものの、5勝10敗の大敗を喫したことで33場所連続で務めた関取の地位から陥落。1場所で十両に返り咲いたものの、再十両となった同年9月場所は西十両14枚目の番付で13日目に負け越しが決定して再び幕下へ陥落することが確実となり、この日のうちに30歳で引退を発表。引退会見では「悔いは一つもない。いろいろな方に支えられ、素質以上のものを出させていただいた」と涙ながらに感謝を語り、思い出の取組として再十両を確定させた同年7月場所の7番相撲を挙げた。引退に際して阿武松も「多彩な技や反射神経もなく、簡単に三役になれる力士ではなかった。よく小結まで上がったと思う。肩と腰はボロボロだが、懸命に頑張ってくれた」とねぎらいの言葉を送っていた。2015年1月31日に国技館で断髪式を行い、450人がハサミを入れたが、この人数は、雑誌『相撲』によると水戸泉、大乃国に次ぐ3番目の多さである。 明治神宮例祭奉祝 奉納70回全日本力士選士権大会 相手は把瑠都関(2011年10月3日撮影)
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