文芸復興とイラン系諸王朝の時代
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「イランの歴史」の記事における「文芸復興とイラン系諸王朝の時代」の解説
アッバース朝の全盛はしかし長くは続かなかった。ハールーン・アッ=ラシードの子、アミーンとマアムーンの内乱は全土に影響し混乱状態を導いた。このような中で頭角を現し、反乱討伐に派遣されたホラーサーン総督となったイラン系マワーリーの将軍ターヒル・イブン・アル=フサインがニーシャーブールを中心に半独立政権をたてた。半独立というのはカリフからの直接の支配は受けないものの、アッバース朝によって支配権を追認されアミールとして正統性を確保したためで、これがターヒル朝(821年 - 873年)である。その後、9世紀後半には都市任侠集団ともいえるアイヤールを出自としてイラン東部スィースターンに成立したサッファール朝(867年 - 903年)、マー・ワラー・アンナフルにブハラを首都としてサーマーン朝(875年 - 999年)といういずれもイラン系の王朝が成立した。これらの王朝もアッバース朝から認められたアミールによる半独立政権であった。ターヒル朝は873年、南から侵入してきたサッファール朝に滅ぼされ、そのサッファール朝も北から進出したサーマーン朝に900年、ホラーサーンを奪われている。 イラン史ではこれらの王朝をもって「アラブの軛」を脱したとすることもあるが、この評価はイラン民族主義的な色彩が濃く、あくまでアッバース朝下の地方政権と評価するべきである。しかし、この時代が近世ペルシア語がほぼ形成され、ペルシアの伝統やペルシア語への誇りが復活した、ペルシア文芸復興と呼ばれる時代であったのは確かである。特にサーマーン朝はペルシア文芸の保護に熱心でルーダキー、ダキーキー、フィルダウスィーらのペルシア詩の巨人を輩出している。 この時代のもう一つの特徴は社会的流動性が活発化したという点である。アッバース朝の内乱はイスラーム世界全体で軍隊の移動、知識人の避難、糧食の移動に伴う取引など人々や物資の流動を激しくした。辺境部にあるイラン系諸王朝、特にサーマーン朝は中央アジア方面のテュルク系遊牧民との抗争を繰り返し、捕虜をマムルーク(奴隷軍人)としてアッバース朝へ供給した。恒常的なイスラーム世界中心部へのテュルク族の移入と、その代価としての銀の流れは巨大なものであった。 経済は活況を呈し、人々の交わりは増えてゆく。イラン以外の諸地域における地方王朝の成立もこのような社会的背景があるが、重要なのはこの時期にイラン地域で社会上層部を中心にイスラームへの改宗が飛躍的に進むことである。まさにこの時期に人々の生活・交流の規範となる文化――イスラーム的ペルシア文化が形成されたのである。換言すればイランやテュルクの人々がイスラーム文化に参入し、イランのイスラーム世界への統合が起こったといえよう。
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