文芸庇護者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 07:08 UTC 版)
「ファーディナンド・スタンリー (第5代ダービー伯爵)」の記事における「文芸庇護者として」の解説
ダービー伯位継承前のストレンジ男爵として活発な文芸活動を行い、劇団の庇護者として名を馳せていた。ストレンジ男爵に叙爵される前からストレンジ卿を称し、1579年から『ストレンジ卿一座(英語版)』という劇団を抱え、しばしば宮廷でエリザベス1世に軽業を披露した。やがてストレンジ卿一座は他の劇団からリチャード・バーベッジ、オーガスティン・フィリップス(英語版)、エドワード・アレン(英語版)など俳優を集めて当代随一の劇団へと成長、クリストファー・マーロウ、ロバート・グリーン、ウィリアム・シェイクスピアなどの作品が上演され、パトロンのストレンジ男爵がダービー伯となった1593年にダービー伯一座と改名した。翌1594年のダービー伯の急死で庇護者を失った劇団は宮内大臣(英語版)の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーに引き取られ宮内大臣一座(英語版)として存続、後に国王一座に改称した。 また、ストレンジ卿はシェイクスピアと関わりがあったと推測されている。1581年にランカシャーの貴族アレグザンダー・ホートンの遺書で言及されているシェイクシャフトという人物がシェイクスピアを指すのではないかという説があり、遺言でホートンから将来を託されたトーマス・ヘスケスの紹介でシェイクスピアはストレンジ卿一座に入ったとされている。ストレンジ卿の死後彼と親しいサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーがシェイクスピアのパトロンになったのも、シェイクスピアがストレンジ卿とサウサンプトン伯の両方と交流があったからとされ、『恋の骨折り損』で2人をモデルにした人物が登場する、『ヘンリー六世 第1部』『ヘンリー六世 第2部』『ヘンリー六世 第3部』『リチャード三世』でスタンリー家の役割を強調するなど、ストレンジ卿がシェイクスピアの生涯に大きな影響を与えた可能性が考えられている。 他にも、『夜の学派』と称する貴族のグループと会合を重ね、哲学、数学、化学などを議論した。マーロウやウォルター・ローリーなどが参加者であり、イングランド演劇のパトロンである貴族とも交流し、1593年にサウサンプトン伯と海軍大臣一座(英語版)のパトロンである海軍卿(英語版)のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワード、ペンブルック伯一座(英語版)のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート(英語版)とオックスフォードの夕食会で会った記録がある。ストレンジ卿は文化人にとっては理想的な人物で、急死に際しエドマンド・スペンサーなどが追悼の辞を綴っている。
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