文化闘争への抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 09:43 UTC 版)
「中央党 (ドイツ)」の記事における「文化闘争への抵抗」の解説
中央党結成によりカトリックの全ドイツ的な政治的集合体ができると、自由主義勢力やそれと連携する帝国政府との対立が鮮明化した。また反プロイセン的邦国分立主義や反帝国政府の意識が高まりを見せた。カトリックは反プロイセン意識が強い南ドイツ・南西ドイツの邦国に多かったためである。またこれらの地域のカトリックは農民・手工業者・職人が多く、彼らは資本主義経済の進展で不利益を受ける立場だったので、政府の工業化推進政策に不満を持っていた。 帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、カトリックの反政府活動、またカトリックを媒介として反政府勢力がフランスやオーストリアと結託することを恐れ、カトリック教会やその信徒へ激しい弾圧を加えた(文化闘争)。ビスマルクがカトリック弾圧を決意したきっかけの一つは中央党の結成にあった。 カトリック教会弾圧立法が次々と制定される中、1876年までにはプロイセンのカトリック司教全員が官憲に逮捕されるか国外追放されるかした。同様に1880年までにはカトリック司祭職4600人のうち1100人までが空席にされた。 カトリックたちの抵抗運動は教会と中央党が主体となった。プロテスタントからの自己防衛のために中央党の結束力は固まっていった。カトリックの80%が中央党に投票し、1873年のプロイセン王国議会下院選挙とドイツ帝国議会選挙では中央党が躍進した。しかしカトリック以上に厄介な社会主義勢力の台頭により1870年代末からビスマルクはカトリックとの和解を図るようになり、弾圧を緩めた。結果、政府とカトリックの激しい敵対関係が終息に向かい、中央党の結束力も緩み、1880年代半ばから得票をだいぶ落とした。 1887年には教皇とビスマルクの間で和解が成立した。中央党は文化闘争以前の状態に戻すことを求めていたが、教皇はドイツ政府がカトリック聖職者の育成と任命に介入するという5月法の撤廃だけを求め、これに応じたビスマルクと教皇の間に和解が成立したのだった。和解方法を巡って中央党と教皇の間に対立が生じたことからも分かるように中央党は完全なカトリック教会の従属政党というわけではなかった。これは中央党が地域の教会を中心とするカトリック社会のネットワークを基盤とし、中央党指導部は教会とは一応別個の議会戦略を立てることができたことによる カトリックと同じくドイツ帝国で「少数派」にあたるのが自由主義勢力や社会主義勢力であったが、中央党はこれらの勢力とも関係が悪かった。自由主義者や社会主義者は宗教を公的生活からは切り離して、私的生活に押し込もうとしていたが、中央党はこれに激しく反発していた。こうした人々から中央党は、聖母マリア無垢受胎信仰、誤謬表、教皇不可謬説といった「非合理性」「退歩性」の象徴と看做されていた。
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