文化間の接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 14:37 UTC 版)
ポルトガル王国の探検家ヴァスコ・ダ・ガマが1498年にモザンビーク海岸に到着した時点で、モザンビーク沿岸部や島嶼部にあるアラブ人の貿易用の集落がすでに数世紀存在しており、政治上は現地のスルターンが支配していた。アラブ人歴史家のマスウーディーは947年にはアフリカのソファの地(Sofa、現モザンビークにあたる地域で、モザンビークの名前自体もポルトガル人が到着した当時、モザンビーク地域を統治していたシャイフのムーサ・アル・ビック(英語版)に由来する)にイスラム教徒が存在すると記録した。現地住民の大半がイスラム教徒になった。モザンビーク地域は1世紀のエリュトゥラー海案内記にも記述されているように、紅海、アラビア半島のハドラマウト地域、インド海岸で構成された貿易圏の南西の端に位置した。
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