教育行政の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/08 14:20 UTC 版)
1963年 高校教育課指導主事として鳥取県教育委員会に移籍。自ら望んだ異動ではなかったが、1964年教職員課主任、1968年教職員課人事第一係長、1969年教職員課課長補佐、1971年教職員課長、1973年鳥取県教育委員会次長兼教職員課長と昇進した。この間、鳥取県は全国に先駆けて少子化が先行し、教員の定員を減らしながら、しかも若い教員を一定数補充していくという難問に直面していた。教員一人ひとりの家庭の事情を鑑みながら個別に退職勧奨をする日々だった。この対策として中堅教員の都市部への短期派遣なども企画実行した。その結果かつては自らが中心になって活動した教職員組合と真っ向から対立することになった。 1975年 これらの厄介な問題を抱えながらも教職員組合とも一定の関係構築に成功したことなどが評価され、鳥取県教育委員会教育長に就任した。教育長は結局60歳までの7年間務めることになるが、これは全国でも稀な長期任期であった。これは先の教員の世代交代問題に加え、西日本特有の同和問題や1985年予定のわかとり国体準備などで、切れ味のよい指導力を発揮したことと、その過程で文部省と太いパイプを構築したためであろう。
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