放送の実際
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 10:09 UTC 版)
詳しい資料が現存しないため、歌唱順などは不明である。白組司会の古川ロッパの日記には「てんで成ってゐない。十時過ぎから十二時迄やらされて、そのドン尻に男軍の司会者僕、女軍のターキー(水の江瀧子)が一つ宛歌ふので、実にその間、ちょっとちょっと宛喋る馬鹿々々しさ……女の方は小夜、葦原、松原等々、男の方は藤原、浪岡、松平、平岡等々十五人位宛出て、たゞ歌ふ、こんな並べ方ぢゃ、しようがあるまい。二時間近く、司会をして、すっかり草疲れしまった。」と書かれている。このとき古川ロッパが歌った「お風呂の歌」は翌1946年(昭和21年)の正月映画『東京五人男』の劇中で古川が歌った曲である。 川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤が作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」でこの年の新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後身『NHK紅白歌合戦』には生涯出場していない)。 ベティ稲田とディック・ミネは出場予定だったが、当日進駐軍のキャンプで行ったライブにおいて、「これから生放送だ!」と観客に言っていたがアンコールを三度求められ、結局本番に間に合わなかったという。2人の欠場による穴埋めとして、両組司会の2人が急遽両組トリ歌手同士として歌唱することとなった。 審査員は存在せず、勝敗の判定もなかった。また、応援団に相当する者も存在しなかったとのこと。当時は大晦日に終夜電車はなく、終電に間に合わない歌手は東京放送会館の音楽部の部屋の椅子で雑魚寝をしてもらっていた。 番組終了後の午前0時(1946年1月1日)に、『除夜の鐘』の生放送(現:『ゆく年くる年』の原型)が行われており、「年越し番組」であった。
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