摂津国・河内国・和泉国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:28 UTC 版)
摂津・河内・和泉の3国は徳川幕府成立以後も大部分が豊臣家の所領であった。このため、この地域における旗本は、関ヶ原の戦い前後から大坂の陣による豊臣家滅亡前後までにかけて、徳川家が勢力拡大及び地域安定化のために地生えの武家勢力・豪商などを取り立てた例が少なくない。大坂近辺では、大坂町奉行のような在坂役人が大坂近辺の役知をそのまま加増地として与えられて知行した場合も少なくないが、旗本札を発行したのは知行地支配力の強い地生え勢力の家々ばかりである。 摂津国能勢郡地黄(現・大阪府能勢郡能勢町地黄)の能勢氏は多田源氏流の名族であるが、豊臣秀吉の能勢郡侵攻によって領地を追われた。流浪を経て五大老筆頭であった徳川家康の庇護を受け、関ヶ原の戦いで戦功を上げて能勢郡の旧領を安堵された。能勢氏はその後、所領を一族で分割支配した。本家の地黄能勢氏は天保年間より旗本札を発行した。分家の能勢郡切畑(現・大阪府能勢郡豊能町切畑)の切畑能勢氏は、加増によって与えられた丹波国氷上郡3ヶ村(現・兵庫県丹波市青垣町)で紙幣を発行した。 摂津国島下郡溝杭(現・大阪府茨木市星見町)に陣屋を構えていた長谷川氏は、江戸時代初期の大名長谷川守知の子孫である。守知は関ヶ原の戦いで西軍に属し、石田三成の居城佐和山城の守備を担当していたが、敗戦後に東軍に内応して落城のきっかけを作ったため、徳川家に大名として取り立てられた。守知は、寛永年間に没する際、領地を子らに分割して与えたため本家の所領が1万石を切ることとなり、いずれも旗本となった。溝杭長谷川氏は、摂津国島下郡のほか数ヶ所に分散して知行地を有していたが、勤番所を置いていた備中国窪屋郡大内(現・岡山県倉敷市大内)で紙幣を発行した。 河内国では、楠木正成の子孫を称し、烏帽子形城主などをつとめた甲斐荘氏(甲斐庄氏)が、徳川家康に取り立てられて錦部郡5ヶ村(現・大阪府河内長野市)を知行する旗本となり、堺の中浜に蔵屋敷を構えた。甲斐庄氏は河内国の知行地及び和泉国堺の蔵屋敷で紙幣を発行した。 摂津国・和泉国の国境の町である堺(現・大阪府堺市)では、豪商今井宗久の子宗薫が大坂の陣ののちに徳川家に代官として取り立てられることにより旗本となった。今井氏は堺宿院町に屋敷を構え、紙幣を発行した。
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