払下げ決定まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:45 UTC 版)
「開拓使官有物払下げ事件」の記事における「払下げ決定まで」の解説
開拓使は、北方開拓のために1869年(明治2年)7月から1882年(明治15年)2月まで置かれた官庁である。 黒田はロシア帝国に対抗する国力を充実させるため北海道の開拓に注力すべきという建議を行った。これに従い、1871年(明治4年)8月19日に10年間1000万両をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が策定された。顧問としてお雇い外国人が招かれ、政策の助言と技術の伝習が行われた。開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、すべてを完遂するには足りず、測量・道路などの基礎的事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。 十年計画の満期間近の1881年(明治14年)、開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏を退職させて企業を起こし、官有の施設・設備を安価で払下げる方針を立てる。黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者をあてるべきだと主張し、また事業が赤字であったことを理由に、非常な安価を付けた。払下げの対象は船舶、倉庫、農園、炭鉱、ビール・砂糖工場などで、およそ1,400万円の費用を投じたものを39万円(無利息30年賦)で払下げるという計画であった。開拓大書記官であった安田定則らの作った北海社が工場経営などの事業に当たるが、資本がないため関西貿易商会(黒田と同郷の薩摩出身者五代友厚らが経営)が払下げを引受けることになった。
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