払下げへの批判と事件の収拾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:45 UTC 版)
「開拓使官有物払下げ事件」の記事における「払下げへの批判と事件の収拾」の解説
政府内でも批判の声が起こり、特に払下げの規則を作った前大蔵卿の大隈が反対した。7月に払下げ計画が新聞報道されるや、大隈が情報を漏らしたのだろうと疑われた。これ以前、三菱の岩崎弥太郎が開拓使の船舶払下げを願い出て却下された経緯もあり、世間では三菱と大隈が結びつき、薩摩閥に対抗していると見られた。さらに大隈が登用した大蔵官僚からも払下げ中止を求める意見が出されたことから、払下げ中止を目的として大隈が仕掛けたという説が広まった。 黒田は強引に天皇の裁許を得て払下げを決定した。批判の声は益々高まり、御用新聞の東京日日新聞までが政府批判を行ったほか、各地で弾劾演説会が催された。 大隈が天皇の地方行幸に随行していた間に、伊藤らは収拾策の方針を決定。天皇が10月11日に帰京すると裁許を仰ぎ、翌12日、大隈の追放、国会開設の詔勅、払下げ中止などを発表した。一種のクーデターである(明治十四年の政変)。その後、黒田も開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。
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