成章館と芙蓉小学校とは? わかりやすく解説

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成章館と芙蓉小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:25 UTC 版)

蓮池町」の記事における「成章館と芙蓉小学校」の解説

7代蓮池藩主の鍋島直温時代に、栗原嘉十という学者招聘し、藩士のための学校藩校)として城内に「成章館」を創立した。直温は藩士次男・三男受講義務づけたほか、優秀者は食費などを給付し、さらに選抜され藩士江戸湯島聖堂などへ遊学させた。 8代藩主鍋島直与は、蓮池藩飛び地領地があった藤津郡塩田現在の嬉野市)からも藩士呼び寄せて学ばせた。学問だけではなく武芸稽古のための「攬英堂」(らんえいどう)を建て、文武両道図った。ここでは砲術熱心に教授された。 成章館嘉永5年1852年)に城下起きた火災類焼受けて焼失した。そのため翌年城外見島村へ場所を移して再建された。さらに慶応2年1866年)に「育英館」と改称明治維新のあとも旧蓮池藩士が共同費用負担し私学校として学校維持した。これが明治7年1874年)に蓮池小学校となった蓮池小学校何度か名を買え、「育英小学校」、「見島小学校」を経て芙蓉小学校」の名称に落ち着いたハスは別名「芙蓉フヨウ)」といい、「芙蓉」は旧蓮池城美称である。 のちに、芙蓉小学校中等科尋常小学校)を併設、さらに小松村蒲田津)と古賀村分校出したこのうち小松分校明治25年1892年)に閉校となった明治41年1908年)には芙蓉小学校高等科設けられ芙蓉尋常高等小学校となった大正元年1912年時点では、尋常科695名、高等科142名の児童がいたと記録されている。 昭和16年1941年)に芙蓉国民学校となり、戦後昭和22年1947年)に芙蓉小学校となり中学校併設された。さらに昭和24年1949年)に佐賀高校分校を置き、定時制普通科被服科教育が行われた。分校設置当初学生男子26名、女子65名だった。この高校分校はまもなく蓮池公園移転したが、昭和40年1965年)に閉校となった芙蓉小学校芙蓉中学校は、2006年4月平成18年度)から統合され小中一貫佐賀市立小中一貫校芙蓉校となった当初それぞれの校舎使用したが、2009年平成21年9月には一体型校舎改築された。

※この「成章館と芙蓉小学校」の解説は、「蓮池町」の解説の一部です。
「成章館と芙蓉小学校」を含む「蓮池町」の記事については、「蓮池町」の概要を参照ください。

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