忠頼謀殺の背景
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『吾妻鏡』は忠頼殺害の理由について「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」(6月16日条)と書くだけで具体的な説明に乏しく、どうして頼朝が忠頼殺害に踏み切ったのか判然としない。直前の政治状況を見てみると、義仲滅亡により鎌倉軍が初めて畿内に進出し、京と鎌倉の間では様々な政治交渉が始まっていた。両者は平氏追討という目的では一致していたが、個々の問題では思惑に差があった。朝廷にすれば寿永二年十月宣旨を下したものの、内心ではこれ以上の大幅な権限委譲は避けたかったと思われる。交渉の結果、後白河法皇は平家没官領を頼朝に与え、3月27日の除目で正四位下に叙した。 なおこの除目の下名には、辞退の項目に「左衛門尉源惟義」、すなわち信濃源氏の大内惟義の名がある(『吉記』4月2日条)。惟義は『延慶本平家物語』では義仲追討戦、『吾妻鏡』では一ノ谷の戦いが初見であり、左衛門尉にいつ任官したか不明だが、朝廷は戦後処理が片付かなければ人事を行う暇はなかったはずで、頼朝と同じ3月27日の除目で任じられたが、すぐに辞任したという解釈が妥当である。 『吉記』の3月分が残っていないため、除目の詳細は明らかでない。しかし3月27日の除目が頼朝に限定されず義仲追討に参加した諸将が対象であったとすると、忠頼も任官の栄に浴した可能性が高い。その場合、前年に安田義定が遠江守に補任されていることから、受領クラスの任官が想定される。『尊卑分脈』の忠頼傍注には「武蔵守」とあり、この記述のみで忠頼が武蔵守に補任されたと確定するのは無理であるが、朝廷に頼朝の対抗勢力として甲斐源氏を懐柔しようという意図があり、忠頼にも甲斐の隣国である武蔵に進出したいという思惑があれば、不自然な人事ではなく蓋然性は高くなる。しかし頼朝にすれば武蔵の実効支配を否定されたも同じであり、到底容認できるものではなかったと推測される。 『延慶本平家物語』には「4月26日に忠頼が討たれ、安田義定は武田信義追討のために甲斐に下向した」という『吾妻鏡』とは異なる記述がある。『延慶本平家物語』の日付に従えば、忠頼の武蔵守補任(3月27日)⇒忠頼謀殺(4月26日)⇒源広綱・平賀義信の駿河守・武蔵守補任(6月5日)という流れとなる。駿河は忠頼が国務を掌握していた国であり、忠頼殺害で頼朝がその支配権を奪取したことになる。 『吾妻鏡』5月1日条は義仲の遺児・源義高誅殺を受けて、その与党追討のために鎌倉から軍勢が発向した記事であるが、下総以外の鎌倉政権下の国の御家人が召集されるなど残党狩りにしては規模が大きく、しかも足利義兼・小笠原長清の軍勢は甲斐に進攻している。『延慶本平家物語』にある安田義定の甲斐下向の記事も合わせると、忠頼謀殺と同時に開始された甲斐源氏制圧のための軍事行動とも考えられる。
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