忠頼謀殺の背景とは? わかりやすく解説

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忠頼謀殺の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:50 UTC 版)

一条忠頼」の記事における「忠頼謀殺の背景」の解説

『吾妻鏡』は忠頼殺害理由について「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」(6月16日条)と書くだけで具体的な説明乏しく、どうして頼朝が忠頼殺害踏み切ったのか判然としない直前政治状況見てみると、義仲滅亡により鎌倉軍が初め畿内進出し、京と鎌倉の間では様々な政治交渉始まっていた。両者平氏追討という目的では一致していたが、個々問題では思惑に差があった。朝廷にすれば寿永二年十月宣旨下したものの、内心ではこれ以上大幅な権限委譲避けたかったと思われる交渉結果後白河法皇平家没官領頼朝与え3月27日除目正四位下叙した。 なおこの除目下名には、辞退の項目に「左衛門尉源惟義」、すなわち信濃源氏大内惟義名がある(『吉記4月2日条)。惟義は『延慶平家物語』では義仲追討戦、『吾妻鏡』では一ノ谷の戦い初見であり、左衛門尉にいつ任官した不明だが、朝廷戦後処理が片付かなければ人事を行う暇はなかったはずで、頼朝と同じ3月27日除目任じられたが、すぐに辞任したという解釈が妥当である。 『吉記』の3月分が残っていないため、除目詳細明らかでない。しかし3月27日除目頼朝限定され義仲追討参加した諸将対象であったとすると、忠頼も任官の栄に浴した可能性が高い。その場合、前年安田義定遠江守補任されていることから、受領クラス任官想定される『尊卑分脈』の忠頼傍注には「武蔵守」とあり、この記述のみで忠頼が武蔵守補任されたと確定するのは無理であるが、朝廷頼朝対抗勢力として甲斐源氏懐柔しようという意図があり、忠頼にも甲斐隣国である武蔵進出したいという思惑があれば、不自然な人事ではなく蓋然性高くなる。しかし頼朝にすれば武蔵実効支配否定されたも同じであり、到底容認できるものではなかったと推測される。 『延慶平家物語』には「4月26日に忠頼が討たれ安田義定武田信義追討のために甲斐下向した」という『吾妻鏡』とは異な記述がある。『延慶平家物語』の日付従えば、忠頼の武蔵守補任3月27日)⇒忠頼謀殺4月26日)⇒源広綱平賀義信駿河守武蔵守補任6月5日)という流れとなる。駿河は忠頼が国務掌握していた国であり、忠頼殺害頼朝がその支配権奪取したことになる。 『吾妻鏡』5月1日条は義仲遺児源義高誅殺受けて、その与党追討のために鎌倉から軍勢発向した記事であるが、下総以外の鎌倉政権下の国の御家人召集されるなど残党狩りにしては規模大きく、しかも足利義兼小笠原長清軍勢甲斐進攻している。『延慶平家物語』にある安田義定甲斐下向記事合わせると、忠頼謀殺同時に開始され甲斐源氏制圧のための軍事行動とも考えられる

※この「忠頼謀殺の背景」の解説は、「一条忠頼」の解説の一部です。
「忠頼謀殺の背景」を含む「一条忠頼」の記事については、「一条忠頼」の概要を参照ください。

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