後代の説
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軍記物『太平記』では敏達天皇・橘諸兄の子孫で本姓橘氏の土豪とされ、また史実としても嫡子の正成が自筆文で公的に橘正成を名乗っているため、後代の説では橘氏の系図に繋げるものが多い。しかし、橘氏後裔とするのは、正成の代に兵衛尉に任官するために捏造したものと見られている。 洞院公定『尊卑分脈』第11巻所収『橘氏系図』では、正成父は「正遠」とされ、掃部助である橘盛仲の子で、従五位上、息子に俊親、正成、正氏がいたとされている。 『群書類従』所収『橘氏系図』では、正成父は「正遠」とされ、掃部助である橘盛仲の子で、正遠の代に初めて(楠木ではなく)「楠」を名乗ったとされる。従五位上。息子に俊親、正成、正氏(後に正季に改名)がいたとされている。 『系図纂要』(橘氏系図)は正遠を藤原純友の乱で武功のあった橘遠保10世の末裔盛仲の子とし、「弘長三年生 楠五郎 刑部左衛門少尉 従五上」とある。また、嘉元2年(1304年)鎌倉で死去したとある[要出典]。 正成を橘遠保系統とする系図では、正成父の名を正遠ではなく、正康や正玄とするものもある。 諸系図の疑わしさは江戸時代の徳川光圀編『大日本史』で既に指摘されており、同書では正成父の名を仮に正康としているものの、系図同士の異説が多くこれらの系図は後代の創作ではないか、とされている。 歴史的事実である可能性は低いものの、能の大家観阿弥の母方の祖父であるという説もある。伊賀の有力家系上嶋氏の『上嶋家系図』によれば、橘入道正遠なる人物の娘が、伊賀服部氏に嫁ぎ、その息子が能の大成者観阿弥であるという。「橘」を名乗るのは前述の通りおそらく正成の代からのため、この記述をそのまま鵜呑みにすることは全く出来ない。表章らからの偽書説もある。ただ、楠木氏の勢力が伊賀にまで及んでいたことは一次史料から確実なため(『光明寺残篇』)、楠木氏と服部氏の間で何らかの縁戚関係は結ばれていたとは考えられる。 森田康之助は、弘安8年(1285年)1月29日付の常陸国国府での下文に「(常陸)国司代左近太夫将監橘朝臣」とあり、『楠嘉兵衛本楠木氏系図』には正成の父・正康は左近太夫であると記されているため、何かしら関係がある可能性を示した。また同じく森田は、正成の父を正遠とするのは、武者所の名簿に現れる無位無官の「橘正遠」が由来であるとし、系図上では従五位上とされる「楠木正遠」が名簿においてその位を書かれなかったことはあり得ないとし、正成の父が正遠であった可能性は低いと指摘した。
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