後代の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 19:45 UTC 版)
高麗王朝が400年以上の長きにわたって続いた基礎を築き上げた偉大なる王として、高く評価されている。『高麗史』の記録から、太祖は即位した後、当時新羅や後百済の征服が完了しておらず南方の備えが不安定だった状況下で、あえて西京(平壌)も越えて直接北の国境地帯を巡察した。その意図は、ただ新羅を滅ぼすだけではなく、高麗王朝を高句麗の継承王朝とし、将来に高句麗の旧領を取り戻す北進政策のための拠点や財政源の確保であった。 訓要十条でも見えるように、太祖自身は契丹(遼)に対して大変敵対的な立場を表明している。実際に敵対的な行動をした代表的な事例として、契丹が渤海を滅ぼした事に激怒した太祖が、契丹から送られてきた駱駝50匹を飢え死にするまで開京の万夫橋にぶら下げ、その使臣30人を島に流して幽閉してしまった事件がある。
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