後代の考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 14:18 UTC 版)
アルベール・カミュは、1951年の『反抗的人間』で以下のように述べている。 ダンディは美学的手段を通じて自らの統一を作りだす。しかしその美学は否定の美学である。ボードレールに言わせれば、「鏡の前に生き、死ぬ」というのがダンディの標語だが、これはたしかになかなか言い得て妙である。しかしダンディの実際の在り様はこれとは逆であって、ダンディというものは挑発によってしか存在することができない。かつて人は自らの則るべき調和を造物主から引き出していた。しかし神との断交を聖別した瞬間から、人は自分の生には寄る辺もなにもなく、日々はまったく無意味で、感覚は無為に費やされると感じるようになった。それゆえ人は自らをその手に引き受けなければならない。ダンディは自らの力を奮い立たせ、すさまじい拒絶によって自らに統一を作りだす。放蕩者としてのダンディは、人並みの人生を逸脱して生きる全ての人同様、役者でしかありえない。しかしこの役者は世間を必要とする。ダンディは自分の演ずべき役を世間との対比において設定し演じることしかできない。ダンディは他人の表情にしか自らの生を実感することができない。他人が彼の鏡なのだ。この鏡はすぐに曇ってしまうが、それもそのはずで、というのも人の注意力には限りがあるからである。それは絶えず挑発によって刺激されなければならない。それゆえダンディは常に耳目を驚かせるよう駆り立てられているのである。奇矯であることがダンディの使命であり、このことはダンディから洗練や完成への道を奪ってしまう。ずっと半端なまま、物事の序の口のところをうろついて、他人に自分を有らしめるよう強い、しかも他人の価値を認めないのである。ダンディは人生を演じるが、それはダンディには人生を生きることができないからである。 ジャン・ボードリヤールは、ダンディズムは「ニヒリズムの美学的形態」であると述べている。 Carlos Espartaco はアメリカの哲学者で詩人の Eduardo Sanguinetti について以下のように述べている。 「ダンディだけが、ストア派的試みの最期の継承者であって、自身を1個の物として「見た目」の世界に置くことで、「モード」(というものはダンディとおそらく不可分だが)の名の下に流行を逃れたのである。実際、流行に真空を召喚してはじめて、(非・流行としての)ダンディを規定する流行を征服することができるのだが、その真空というのは「いまここの感覚とは何千キロも隔たった」ものなのである。そして Eduardo Sanguinetti にとって、流行に「真空」を召喚するとは(Sanguinetti が「反・流行」や「外見」といった文脈で用いる複合戦略の用語で言うと)自己を完全にうつろにすることを意味し、それにより時から解放されるが、ただし新たに生まれ出ずる良きものは欠かさず登録するという努力は否定されない。この境地に至ることは、ボードレールの言うところの「ヘラクレスが双肩に担う」大地からの視点を獲得することに近い。
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