征清美談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 16:33 UTC 版)
日清貿易研究所卒業生は日清商品陳列所にて貿易実習を行っていたが、日清戦争の勃発により多くは軍の通訳官となった。しかし、一部の卒業生は軍事探偵として特別任務を与えられ、過酷な運命を体験をすることになった。その経緯を「征清美談」より、唯一人生還した向野堅一に関する記述を引用する。(ひらがなの送り仮名に変更) 向野堅一虎口を逃れて使命を全うす (向野堅一は)明治26年7月(日清貿易研究所を)卒業し商品陳列所に移り、実地商業を修む後、長江沿岸の各港、都邑商況観察として支那服を着し旅行をなす。漢口の諸港を遊歴し、安慶に至る。偶々(たまたま)日清葛藤を生じ、我が軍仁川に上陸せんとの報あり。よって心陰に悦び、直に上海に帰り形勢の変に注目す。 6月中旬いささか感ずる所ありて、友人福原林平(岡山県人)、楠内友二郎(鹿児島県人)、藤崎秀(同)、成田錬乃介(同)、大熊鵬(福岡県人)、景山長二郎(岡山県人)、前田彪(熊本県人)、松田満(同)、猪田正吉(福岡県人)等と相計るところあり。 偶々(たまたま)楠内、福原の両人、清官の捕するところとなる。ついに在上海なる日本人にして髪を貯う者はかの嫌疑を受け、やむを得ず清国を去らざるべからずの場合となれり。是に於いて、藤崎、大熊の両人と長崎に帰るや、日清すでに戦を交え、間もなく大本営の命に応じ、広島に赴き、9月30日藤崎、大熊の二人と共に第1師団司令部附き通訳官を命ぜられ、3名は山地師団長および大寺参謀長に面会し、大いに熱血を吐き、年来貯えたる髪を利用し、大いに国家に報ずるあらんことを誓う。師団長および参謀長大いに喜び、通常の通訳官とせず特別の任務を帯び従軍することに決せり。 10月16日師団と共に宇品を発し、24日花園河口に上陸するや、倉卒(すぐに)服装を変じ、貔子窩(ひしか)に出で普蘭店を経て復州に赴き敵状を探知するの任務を負う。藤崎、大熊の二人と共に再会期し難しとて互いに涙を振い手を握り各々方向を異にして別る。午後5時我が軍に先んじ、暗夜内地に侵入す。この日、第2軍司令部の特別任務者鐘崎三郎、山崎羔三郎、猪田正吉の3人、堅一と前後内地に入る。 25日、碧流河を過ぐる4里余りの所に至り、土民のために捕獲せられ一命まさに危うきところ、監視の清人に銀塊を与え、暗夜に乗じ捕縛のまま逃遁し、昼夜の間、食を得ず、山中を徘徊し、4日間にして復州に達するを得て、敵兵の状況を探り、普蘭店を経て、金州城に入り、敵軍の兵馬充満せる間に混入し、兵数砲数地雷火設地等を探り、我が軍の金州攻撃の3日前すなわち11月3日師団の貔子窩を発し金州に赴く途中にして邂逅し無事に使命を全うし師団長に報告せり。
※この「征清美談」の解説は、「日清商品陳列所」の解説の一部です。
「征清美談」を含む「日清商品陳列所」の記事については、「日清商品陳列所」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から征清美談を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から征清美談を検索
- 征清美談のページへのリンク