役割の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 05:44 UTC 版)
1910年以前のチンロンは主に疲労回復のための遊戯として行われていたが、やがて僧侶の葬儀などの仏教行事や王に関連する祭りなどの余興にもなった。1910年、ヤンゴン高校の運動会で初めて得点制度が提案され、それまで遊戯や娯楽とされてきたチンロンに競争/勝敗の要素が加わった。1916年にはヤンゴン大学(英語版)のスポーツ大会でチンロンの試合が行われ、チンロンに初めてスポーツの概念が取り入れられたといえる。 イギリス統治下のビルマではチンロンは社会的地位の低い人々の遊戯であるとされ、「利己的なゲーム」「わがままなゲーム」であるとして学校内でのプレーが禁止されることもあった。しかし1925年、保健員、地租査定官、教師、銀行員など社会的地位が比較的高い人々が集まってマンダレーに「仏教徒チンロンチーム」が設立された。仏教徒チンロンチームは「会費でのチーム運営」や「同一のユニフォーム着用」などを行い、夜間もプレーできるチンロン場を建設した。その後はミンチャン、サガイン、シュウェボ、チャウセ、アマヤプラなどの都市にもチンロンチームが作られ、娯楽や疲労回復などに加えて健康増進なども目的として行われた。1930年または1931年には、ミャンマー全土におけるチンロンのルールの統一を目指した「ヤンゴン中央チンロンチーム」が設立された。ヤンゴン中央チンロンチームは各都市のチーム代表者が集まった会議を主導し、1934年には競技規則が明文化されたが、この際の規則の多くは継続されることなく消滅している。遊戯だった頃のチンロンの行い手はビロードの短パン、ロンジー(伝統的な巻きスカート)、絹のスカーフ、ガウンバウン(英語版)(伝統的な帽子)を着用してプレーしていたが、1930年代半ばにはロンジーやガウンパウンの着用禁止、半ズボンの着用が取り決められた。 1941年にはビルマスポーツ連盟が主催する全国運動会がBAAスタジアムで開催され、初めて種目の中にチンロンが加えられた。これはチンロン初の全国大会であり、政府によってスポーツのひとつに認められた。第二次世界大戦後の1947年にはビルマ・オリンピック・スポーツ委員会が設立され、アマチュア・チンロン連盟も委員会に加盟した。1953年にはビルマ政府が主導し、各地方の代表者が集った会議によって競技規則の制定が行われた。
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