弟との戦いとは? わかりやすく解説

弟との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「弟との戦い」の解説

詳細は「織田信行」を参照 最も有力な味方である道三を失った信長対し林秀貞(通勝)・林通具柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する。信勝は、父・信秀から末盛城柴田勝家ら有力家臣与えられるとともに愛知郡内に一定の支配権有するなど、弾正忠家において以前から強い力有していた。弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家継承者候補として信長と争う立場にあった同年8月両者稲生激突するが、結果信長勝利終わった稲生の戦い)。信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母土田御前仲介により、信勝・勝家らを赦免した。しかし、永禄元年1558年)に信勝は再び謀反企てる。この時、信勝を見限った柴田勝家からの密告があり、事態悟った信長は病と称して信勝を清洲城誘い出し殺害した。 さらに同年7月信長は、同族犬山城主・織田信清協力し尾張上四郡(丹羽郡葉栗郡中島郡春日井郡)の守護代織田伊勢守家岩倉織田家)の当主織田信賢浮野の戦いにおいて撃破した。そして、翌年には、信賢の本拠地岩倉城陥落させた。 永禄2年1559年2月2日信長は約500名の軍勢引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足義輝謁見した。村岡生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張統治者として幕府認めてもらうことにあったという。しかし、この目的達成されなかったと考えられる一方天野忠幸によればこの上洛は尾張問題だけによるものではなく前年足利義輝正親町天皇擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名拠って立つ足利将軍家頂点に立つ武家秩序崩壊する危機感高まり、その状況信長自らが確認する意図もあったとされる

※この「弟との戦い」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「弟との戦い」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

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