弟との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:18 UTC 版)
「イムレ (ハンガリー王)」の記事における「弟との争い」の解説
1196年4月23日にベーラ3世は没し、イムレは父の跡を継いだ。ベーラ3世は生前、十字軍として聖地に遠征することを条件に領地と金銭をイムレの弟アンドラーシュに遺していた。しかし、アンドラーシュは独立した公国の相続を要求して、1197年にイムレに対して反乱を起こす。オーストリア公レオポルト6世はアンドラーシュに与してハンガリーの内戦に介入したが、1197年末にイムレはスラヴォニアのMačkiでアンドラーシュとレオポルト6世の連合軍を破る。しかし、1198年の初頭にイムレはアンドラーシュにクロアチアとダルマチアを公国として授与することを余儀なくされる。 教皇インノケンティウス3世はアンドラーシュに十字軍への参加を促し続けていたが、なおもアンドラーシュはイムレに対する陰謀をめぐらせていた。1199年3月10日、イムレはアンドラーシュを支持するヴァーチ司教から、自分に対する陰謀への参加を証明する文書を押収した。1199年の夏、イムレはバラトン湖の近辺でアンドラーシュの軍を破り、アンドラーシュはオーストリアに逃亡した。教皇特使(英語版)グレゴリーがイムレとアンドラーシュの戦争を仲裁するためにハンガリーを訪れ、1200年夏にイムレは取り決めに従ってアンドラーシュのクロアチア、ダルマチアの領有を承認した。
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