弟との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 07:56 UTC 版)
しかし天文20年(1551年)、再び備前へ侵攻してきた尼子晴久との関係をめぐり弟の宗景と意見が分かれる。そこで政宗は尼子晴久、松田元輝と同盟を結び、宗景は毛利元就の援助を得て対立。備前の国衆も政宗に味方する者(浮田国定など)、宗景に味方する者(中山信正など)が現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。しかし天神山城や新庄山城などで相次いで敗北。さらに旧主晴政も三石城まで出兵してくるなどし敵に囲まれた政宗は味方の国衆の動きを操ることもままならないまま弘治年間(1555年 - 1557年)の内に備前での勢力を大きく後退させてしまう。 この間にも尼子晴久に度々支援を要請しており、これに際して晴久は自ら約30000余りの軍勢を持って美作国に侵攻した宗景を撃破するも、晴久・政宗にとっても決定打とはならなかった。更には晴久の急死により尼子氏の勢力が後退すると、これらの支援も期待出来ない状況へと追い込まれた。
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