弟との対立、ボヘミアに臣従
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「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の記事における「弟との対立、ボヘミアに臣従」の解説
1322年以降、ボレスワフと弟ヘンリク6世との関係は悪化し始めた。ヘンリク6世が兄の攻撃的な政治方針についていくのを拒み、単独でオレシニツァ公コンラト1世と同盟した結果、ボレスワフ3世が豊かなヴロツワフの支配権を要求する姿勢をはっきりと示し出したのが原因だった。ボレスワフ3世は自分の領するレグニツァとヴロツワフを交換するよう公式に提案しにいくほど、ヴロツワフに対する執念を見せていたが、ヘンリク6世がこのような不公平な領地変えに応じるはずはなかった。 ヘンリク6世はポーランド王ヴワディスワフ1世と連絡を緊密にし、王に臣従を誓い、自分の後継者を指名する権利を引き渡すかわりに同盟してくれるよう頼んだ。しかしボヘミア王国との直接対決を恐れるヴワディスワフ1世は、ボヘミアとの関係の深いこの地域の問題にかかわるのを拒んだため、ヘンリク6世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世に助力を求め、1324年4月24日に神聖ローマ帝国の封臣となることを宣言した。見返りに、ルートヴィヒ4世は息子のいないヘンリク6世の領地を娘達が相続することを承認した。この決定を聞くと、ボレスワフ3世はこの問題に武力で決着をつけようと軍隊を率いてヴロツワフに赴いたが、ヴロツワフの堅固な城壁に阻まれ、遠征は失敗した。 しかし1327年、状況は一変する。かねてよりヴワディスワフ1世を敵視していたボヘミア王ヨハンが、ヘンリク6世を説得して皇帝との主従関係を解消させ、ヴロツワフ公をボヘミア王の封臣としたのである。その見返りに、ヘンリク6世はグラーツ郡を終身の領地として与えられ、高額の年金を受けることになった。 ヴロツワフを奪取しようと目論むボレスワフの最後の試みは、ボヘミア王ヨハンが不在であった1327年から1328年にかけて展開された。しかし前回と同様、ヴロツワフの固い城壁の前に失敗に終わっている。 1329年、ボレスワフ3世によってレグニツァ公の地位を追われていた末弟ヴワディスワフがシロンスクに突然帰国した。ボヘミア王の封臣となったヴワディスワフは、国王ヨハンの名の下にレグニツァ領有を主張、ボレスワフ3世を窮地に追い込んだ。ヨハンに対して戦争を起こす資産すらないボレスワフ3世は1329年5月9日、自らもボヘミア王の封臣となることを誓った。独立を失った後、ボレスワフ3世の政治活動はめっきり目立たないものになった。但しボヘミア王ヨハンの名の下に、1329年から1331年にかけてルサティア(ラウジッツ)とグウォグフへの遠征を行っている。
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