弟との対立、ボヘミアに臣従とは? わかりやすく解説

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弟との対立、ボヘミアに臣従

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/28 05:08 UTC 版)

ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の記事における「弟との対立、ボヘミアに臣従」の解説

1322年以降ボレスワフと弟ヘンリク6世との関係は悪化し始めたヘンリク6世が兄の攻撃的な政治方針ついていくのを拒み単独オレシニツァ公コンラト1世同盟した結果ボレスワフ3世豊かなヴロツワフ支配権要求する姿勢をはっきりと示し出したのが原因だった。ボレスワフ3世自分領するレグニツァヴロツワフ交換するよう公式に提案しいくほどヴロツワフ対す執念見せていたが、ヘンリク6世このような不公平な領地変え応じるはずはなかった。 ヘンリク6世ポーランドヴワディスワフ1世連絡緊密にし、王に臣従誓い自分後継者指名する権利引き渡すかわりに同盟してくれるよう頼んだ。しかしボヘミア王国との直接対決恐れヴワディスワフ1世は、ボヘミアとの関係の深いこの地域問題にかかわるのを拒んだため、ヘンリク6世神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世助力求め1324年4月24日神聖ローマ帝国封臣となることを宣言した見返りに、ルートヴィヒ4世息子のいないヘンリク6世領地を娘達が相続することを承認した。この決定聞くと、ボレスワフ3世はこの問題武力決着つけよう軍隊率いてヴロツワフ赴いたが、ヴロツワフ堅固な城壁阻まれ遠征失敗した。 しかし1327年状況一変するかねてよりヴワディスワフ1世敵視していたボヘミア王ヨハンが、ヘンリク6世説得して皇帝との主従関係解消させ、ヴロツワフ公をボヘミア王封臣としたのである。その見返りに、ヘンリク6世グラーツ郡を終身領地として与えられ高額年金を受けることになったヴロツワフ奪取しようと目論むボレスワフ最後試みは、ボヘミア王ヨハン不在であった1327年から1328年にかけて展開された。しかし前回と同様、ヴロツワフ固い城壁前に失敗終わっている。 1329年ボレスワフ3世によってレグニツァ公地位追われていた末弟ヴワディスワフシロンスクに突然帰国したボヘミア王封臣となったヴワディスワフは、国王ヨハンの名の下にレグニツァ領有主張ボレスワフ3世窮地追い込んだヨハンに対して戦争起こす資産すらないボレスワフ3世1329年5月9日、自らもボヘミア王封臣となることを誓った独立失った後、ボレスワフ3世政治活動めっきり目立たないものになった。但しボヘミア王ヨハンの名の下に、1329年から1331年にかけてルサティアラウジッツ)とグウォグフへの遠征行っている。

※この「弟との対立、ボヘミアに臣従」の解説は、「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の解説の一部です。
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