建造~ミッドウェー海戦まで
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「霞 (朝潮型駆逐艦)」の記事における「建造~ミッドウェー海戦まで」の解説
1936年(昭和11年)1月20日、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1隻が「朝雲(アサグモ)」と命名されたが、6月19日に霞と改名された。12月1日に起工、1937年(昭和12年)11月18日に進水。1939年(昭和14年)6月28日に竣工し、同型艦の霰と共に第18駆逐隊を編制した。11月6日に陽炎が編入し、15日に第二艦隊・第二水雷戦隊に配属された。12月20日、不知火が編入し、第18駆逐隊は霞、霰、陽炎、不知火の4隻体制となった。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に18駆の僚艦と共に参加。18駆は第三列(金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、《陽炎》、大潮、朝潮、荒潮、満潮、《霰、霞、不知火》、黒潮、雪風、初風)に配置された。1941年(昭和16年)9月1日、宮坂義登大佐が駆逐隊司令に就任した。 真珠湾攻撃に備えて、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の指揮を離れて南雲機動部隊の警戒隊(指揮官:第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将)に編入し、一水戦旗艦の軽巡阿武隈、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)と駆逐艦秋雲(第五航空戦隊所属)と行動を共にした。1941年(昭和16年)11月26日、南雲機動部隊警戒隊は空母6隻(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《蒼龍、飛龍》、第五航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》)の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦に参加した。 1942年(昭和17年)1月8日、呉を出港してトラック泊地へ進出。機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第二航空戦隊のポート・ダーウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った。5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊指揮下に戻った。5月下旬にサイパンに進出。6月5-7日のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。ミッドウェー作戦の中止を決めた連合艦隊は8日、重巡三隈が沈没し重巡最上が大破した第七戦隊の指揮下に第18駆逐隊を配置し、護衛を命じた。14日、第七戦隊の最上、重巡熊野、重巡鈴谷と共にトラックに帰投。最上をトラックに残し、熊野と鈴谷を護衛して23日、呉に帰投した。
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