廃止とその効果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 15:26 UTC 版)
前項のような学問的下地を受けて1215年、ラテラン公会議において、教皇インノケンティウス3世は聖職者が神判に関わることを禁じた。神判は神の奇跡を前提とするのであるから、司祭なしに継続させることは難しかった。さまざまな歴史学上の論争があるものの、神判が衰えていくのはこの公会議が契機であったことはおおむね了解されている。 この禁止令を受けて神判は、ヨーロッパ全土で次第に下火になっていく。1216年デンマーク、1219年イングランドでの神判廃止は、当時としては迅速な反応と言えた。教皇の権威が届きやすい地域や教皇に従順な支配者のいる場所では禁令は素早く、そうでない地域はなかなか浸透しなかった。ドイツは教皇と対立していたうえ小領主の分権化が進んでおり、教皇の意思伝達が困難であった。地域によっては聖職者に神判主宰を強要することもあり、民間ではなお神判信仰は根強かったことが窺われる。バルカン半島地域では16世紀にもまだ神判が行われていたし、下って19世紀にも神判らしき風習の記録が残っている。 この神判廃止によって、それまで未分化であったキリスト教の罪(sin)と刑法上の犯罪(crime)が次第に分かれていったと指摘されている。訴訟・取り調べから聖職者が引くことで、各地の王たちは神の権威に頼らずに訴訟を処理しなければならなくなった。叙任権闘争によって王は聖職上の権力を失い、また教会は世俗権力から独立的地位を確保した。こうして聖と俗が分離し、さらに刑事法と民事法が分かれたのもこの頃であり、法制史上の転換点とされる。 神判が廃止されても犯人特定のための方法は必要である。代替手段は地域によってまちまちであったが、雪冤宣誓に頼ったり、陪審制度を整備する地域もあった。しかしヨーロッパでもっとも多用されるのは、自白を得るための拷問であった。中世後期・近世を通じて拷問は広く使われることになる。拷問は自白を得るのにもっとも簡便な方法であったが、冤罪を多く生み出す結果ももたらした。拷問廃止に流れが傾くのは遠く18世紀、啓蒙思想の登場を待たねばならない。
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