廃止とその後のプロイセン立法機関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 02:14 UTC 版)
「プロイセン衆議院」の記事における「廃止とその後のプロイセン立法機関」の解説
第一次世界大戦末のドイツ革命により、ドイツやプロイセンは共和政となった。1918年11月14日には中央政府と同様にプロイセン政府にも社民党と独立社民党が3人ずつ閣僚を出し合う仮政府「人民代表評議会(Volksbeauftragten)」が創設された。プロイセン人民代表評議会は翌11月15日にも貴族院の廃止と衆議院の解散を宣言した。 12月21日にはプロイセン憲法制定議会プロイセン州会議(Preußische Landesversammlung)(ドイツ語版)の選挙に関する条例が定められ、これが従来の衆議院に取って代わることになった。この際に衆議院時代の男子三級選挙制度は男女普通選挙に改正された。プロイセン州会議の選挙と召集が行われた後、1920年11月30日にプロイセン憲法(ドイツ語版)が制定された。同憲法により民選のプロイセン州議会が設置された。また州議会に対する上院として、県(Provinz)代表で構成されるプロイセン州参議院(ドイツ語版)が設置された。ただしこの州参議院は貴族院と違って立法権を有しておらず、州議会に対して異議を申し立てることができるのみだった(州議会の三分の二の賛成があるとこの異議は拒否される)。
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