廃止と再設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 04:44 UTC 版)
火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所の同心・与力からも嫌われていた記録が見られる。慕われていたのはごく一部であった(一例として、先述の長谷川宣以は「本所の平蔵さま」「今大岡」と庶民から呼ばれ、人情味があるとして人気が高かった)。このためか、時代劇において悪役として扱われることも少なくない。 これらの弊害により、1699年(元禄12年)、盗賊改と火付改は廃止され、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)の管轄になるが、赤穂事件があった1702年(元禄15年)に盗賊改が復活し、博打改が加わる。翌年、火付改が復活した。1718年(享保3年)には、盗賊改と火付改は、「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、1862年(文久2年)には先手頭兼任から独立、加役から専任制になった。博打改は火付盗賊改ができた年に、町奉行の下に移管されている。 本役加役(任期1年)2名、当分加役(任期半年)2名が通例であったという。当分加役は火災の多い秋冬(9月 - 3月)に任命されていた。この他、江戸市中で打ちこわしが多発した際など、騒然とした状況下において増役として同役が増員された例がある。
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