平和革命論批判と分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:22 UTC 版)
アメリカ合衆国による日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立、1949年の中華民国での国共内戦に勝利した、中国共産党による中華人民共和国の成立で、東アジアの緊張が高まった。 「逆コース」を参照 1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙『恒久平和のために人民民主主義のために!』に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(このため後に所感派と呼ばれた)。 しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らはスターリンや毛沢東による国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(このため後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している)。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田球一が国会に証人喚問される事態になった。 1950年5月には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして、日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に日本共産党と占領軍の間で、大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは日本共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し団体等規正令に基づく出頭命令を拒否した団規令事件で逮捕状が出て、9人の共産党幹部は地下に潜行した。 公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中華人民共和国に亡命して「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している。)1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発した。 コミンフォルム論評への対応に加え、レッドパージによる弾圧もあり、日本共産党は、主流派である徳田球一らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。
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