師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン
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「釈宗演」の記事における「師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン」の解説
1878年、釈宗演は秋に鎌倉円覚寺の今北洪川に参じて修行。それから5年して1883年、師匠の今北洪川は遂に弟子の釈宗演に、「若の演禅士、力を参学に用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて、長時苦屈の情を伸暢す。老僧、祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈をおくっている。釈宗演が満23歳の時である。 1884年、釈宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した。 1885年、慶應義塾に入った。慶應へ行くことに師匠の今北洪川は反対したが、鳥尾得庵等の助けもあり、なんとか入学した。ここで福沢諭吉とも緑が出来、親交は長く続くこととなった。 1887年、慶應義塾別科で学んだあと、当時のセイロン(スリランカ)に行って、仏教の原典を学ぼうとした。当時のセイロン行きは文字通りの命がけであった。師の今北洪川はこれにも猛反対したが、山岡鉄舟や福沢諭吉等からの助けもあり、セイロン行きを敢行した。渡航に関して、恩師の福沢諭吉からは「汝道に志す、よろしくセイロンに渡航して源流を遡るべく、志や翻すべからず」と勧められ、山岡鉄舟には「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかん」と言われた。そして1887年3月31日にコロンボにつき、セイロンでパーリ語を学び、僧院で修行し、5月7日沙弥として出家し、パンニャーケートゥの法名をもらい、セイロンの袈裟に着替え、1889年10月に帰国した。セイロン滞在中の1889年に『西南之仏教』を刊行。そのなかで北方仏教と南方仏教という二分法を、東北仏教と西南仏教、さらに小乗仏教と大乗仏教といいかえた。セイロン、シャム、ビルマ、カンボジアを小乗、支那、朝鮮、蒙古満洲、韃靼、西蔵等を大乗仏教としている。
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