師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロンの意味・解説 

師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:06 UTC 版)

釈宗演」の記事における「師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン」の解説

1878年釈宗演秋に鎌倉円覚寺今北洪川参じ修行。それから5年して1883年師匠今北洪川遂に弟子釈宗演に、「若の演禅士、力を参学用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて長時苦屈の情を伸暢す。老僧祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈をおくっている。釈宗演が満23歳の時である。 1884年釈宗演鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院仏日庵住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した1885年慶應義塾入った慶應へ行くことに師匠今北洪川反対したが、鳥尾得庵等の助けもあり、なんとか入学した。ここで福沢諭吉とも緑が出来親交長く続くこととなった1887年慶應義塾別科学んだあと、当時セイロン(スリランカ)に行って仏教原典学ぼうとした。当時セイロン行きは文字通り命がけであった。師の今北洪川はこれにも猛反対したが、山岡鉄舟福沢諭吉等からの助けもあり、セイロン行き敢行した。渡航に関して恩師福沢諭吉からは「汝道に志す、よろしくセイロン渡航して源流遡るべく、志や翻すべからず」と勧められ山岡鉄舟には「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかんと言われた。そして1887年3月31日コロンボにつき、セイロンパーリ語学び僧院修行し5月7日沙弥として出家し、パンニャーケートゥの法名をもらい、セイロン袈裟着替え1889年10月帰国したセイロン滞在中の1889年に『西南仏教』を刊行そのなかで北方仏教南方仏教という二分法を、東北仏教西南仏教、さらに小乗仏教大乗仏教いいかえた。セイロンシャムビルマカンボジア小乗支那朝鮮蒙古満洲韃靼西蔵等を大乗仏教としている。

※この「師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン」の解説は、「釈宗演」の解説の一部です。
「師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン」を含む「釈宗演」の記事については、「釈宗演」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン」の関連用語

1
14% |||||

師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの釈宗演 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS