山田線列車転落事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:45 UTC 版)
「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「山田線列車転落事故」の解説
1944年(昭和19年)3月12日午前8時7分ごろ発生 山田線の平津戸 - 川内間を走行していた盛岡発・釜石行下り貨物465列車(宮古機関区所属C58形283号蒸気機関車牽引、現車13両、換算14.8両、重量148トン)が、雪崩で崩壊した鉄橋に突っ込み谷底へ転落、機関士が死亡し機関助士が負傷した。 当該列車は大雪の影響により、平津戸駅に定刻より2時間遅れの3月12日午前0時20分に到着した。先行する宮古行下り旅客15列車が豪雪により川内駅で立ち往生したため足止めとなり、午前7時56分に平津戸駅を発車したが、第二小滝トンネルを出た直後に小雪崩が機関車を直撃し、運転台前面窓を突き抜けて、雪が運転台になだれ込み、乗務員が身動きを取りにくい状況と吹雪で視界を奪われた状態で崩落した鉄橋に突っ込んだと思われる。 機関士が瀕死の重傷を負いながらも事故拡大防止のため、機関助士に緊急連絡を指示し息絶えた美談について、東映が大川博社長の企画で三國連太郎の主演により『大いなる旅路』(1960年)という題名で映画化され世に広く知られることとなった。また、現場付近には慰霊碑が建てられている。 当時の山田線は、戦争による海上輸送が困難となった釜石製鉄所への軍需物資である鉄鉱石・石炭および鉄鋼輸送のため、昼夜関係なく24時間体制で重量物を運ぶ貨物列車がダイヤの限界まで設定されていたが、当日の荒天による大雪のため、山田線の各列車に大幅な遅れが生じていた。 C58形283号蒸気機関車は、事故後しばらく経ってから現場から引き上げ、修理後に運用復帰し、1970年(昭和45年)2月に山田線の無煙化により、蒸気機関車お別れ列車を牽引している。
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